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桃畑

小学校入学前の私はとても人見知りだった。

翌年の4月に小学校入学を控えた人見知りの私を父は非常に心配し、度々私を仕事である大型トラックで福島県の桃農家への堆肥輸送に連れ出した。

父の本業は米農家だったのだが田んぼが落ち着くと友人宅の畜産業を手伝いアルバイトをしていた。

その畜産農家は堆肥販売もしていてそのトラック輸送を父が行っていたのだ。

大型トラックで1日に何往復も福島県と宮城県を片道約1時間の道のりを行ったり来たりした。


その日の朝も祖母に起こされて朝ご飯を食べに茶の間に行くと母が父におにぎりを渡していた。母がおにぎりを渡す日は父がトラック輸送をする日だった。


お父さん今日もベゴ(牛)屋さん?

「んだ。忙しいんだど。○○も行くか?」

うん、行く。


母に急遽私の分のおにぎりも作って貰い父のアルバイトに同行する事になった。

車で10分ほど走ると大きな門と沢山の牛舎が見える通称ベゴ屋さんに到着した。

敷地内にある詰め所で他の従業員の人や社長さんにモジモジ父の後ろに隠れながら挨拶をして私と父は社長さん所有の大型トラックに乗って、積み込み担当の人に堆肥を積み込んで貰い、またまた大きな門を今度はゆっくりゆっくり出て福島県の桃農家の畑に向かって走り出した。

今とは違いナビ等無かった時代に父が何故あれ程道のりを知っていたのかは謎で迷う事も無く到着するのがとても不思議だった。


お父さん道わかるの?わかんなくなって迷わないの?

「このへんの電柱はみなお父さんが立てたんだ。福島から山形までわからない道は無いから安心しろ」

そう言われると父はとても偉大な事を成し遂げた人に見えて心から安心できたのだ。

多分その前職で培った土地勘があったからこそ社長さんに頼まれてトラック輸送を手伝っていたのかもしれない。

国道4号線を南へ、白石市を抜けて越河、国見、桑折へ。国見町の長い坂を下る時、未だにトラックでお父さんと福島に通ったのを思い出すのだ。

国道の両脇とも桃農家で春先は綺麗な濃いピンク色で斜面が埋め尽くされてまるで曾祖母が言っていた桃源郷かと思う程美しい景色だった。

桑折町から左折して橋を渡っていたので多分行き先は保原市だったのだと思う。

桃農家さんの畑には自分の祖母くらいのニコニコとしたお婆ちゃんとお爺ちゃんとお父さんくらいのおじちゃんがいて

「ここさ降ろしてけらい」

と父のトラックを誘導してくれた。

荷降ろしの時、ガタガタと大きく揺れるのが大嫌いだった私はシートベルトをキツく締め更にシートベルトをギッチリと掴んで揺れに耐えていた。あの荷降ろし時の揺れを準備無しにまともに食らってしまうと酷い車酔いになってしまうので私はいつも歯を食いしばって耐えていた。

これさえ無ければただただ楽しいドライブなのに。

「あともう一回運んで来るんで。」

父が軽く挨拶をして乗り込んだ時、私の存在に気が付いたお婆ちゃんが手を降ってくれた。私もモジモジしながら小さく手を振替した。

「さて戻るか」

戻りの道はまた父とあの看板は何かとか、あの建物は何を作っているのかとか、あの向こうには何があるのかとか、この道を曲がると何処へ繋がるのだとか、この辺の子供達はどこの学校に通っているのか等と楽しくお喋りをしながらベゴ屋さんまで戻った。

そしてまた堆肥を積み込んで貰い同じ道を先程の桃農家さんの畑へ走った。

途中父が売店でジュースを買ってくれて嬉しくなったりしながら私達はまた福島への道のりを同じような事を飽きること無く、更に改めて発見してしまった溜池や川などを父に根掘り葉掘り楽しく聞きながら手を降ってくれたお婆ちゃんのもとへ運んだのだ。


そしてまた迷うこと無く、同じような景色が続く桃農家さん宅への2回目の堆肥の荷降ろしをしていた時、ちょっとした事件が起きた。

いつもと違う揺れ方だなぁなんてシートベルトを握り締めながら思っていると父が

「ありゃ落ちっつまったわ」

と、ちょっと焦った声を上げた。

2回目の畑はさっきの畑のちょっと隣で、数日前に降った雨のせいでちょっと泥濘んでいたようだ。

何回か脱出を試すも駄目で桃農家の若いおじちゃんも焦って何か言っていた。

「○○お父さんトラックば畑から出すからちょこっと降りてあの桃の木んとこさいろ。トラック揺れっからや。酔うべ?」

そう言って作業場の横の小さな桃が沢山なった桃の木を指さした。

うん

私はトラックから降りると桃の木の所に走って向かった。

トラックのタイヤの下にベニヤ板のような物を挟んだり土をかませたりしながらトラックが前に後ろにゆっくり動くのを暫く見ていたのたが進まない作業に見るのを若干飽きてきた頃、作業場の後ろに小さな小川があるのを見つけた。

家の横にも小川があって、ドショウやメダカ、タニシなどがいたので福島はどうなのかなと好奇心が湧いてしまった。

小川は綺麗で水の下は砂ではなく泥だった。よく見るとメダカがいる。手を水に入れるとメダカが何匹も逃げるのがわかった。

少しだけ小川の流れる方向に移動するとクレソンが沢山生えていてそのクレソンをそっと手前に寄せてみるとやはり沢山のメダカが逃げるのが見えた。

メダカ福島にもいるんだなぁ

などとチョロチョロ動くメダカを追っていると不意に父の声がした。

「なんだ。ここにいたのか。トラック上がったから帰るぞ」

いつの間にかトラックは畑から出ていたらしい。

「どっか行ったかと思ったや。誘拐すらったのかと思ったわ」

メダカ沢山いたの。

「んだが」


父はちょっと笑ってそう言った。

そしてお婆ちゃんとおじちゃんに私がいた事を伝えると笑いながら

「メダカ見ったみたいだなぃ」 

誘拐でなくて良かった。とお婆ちゃんに言われて父も苦笑いをしていた。

トラックに乗り込む前にお婆ちゃんから大きな桃をビニール袋いっぱいに貰った。

「規格外だけど味は抜群だから」

片手では持てないくらいの大きな桃。ニコニコ笑うお婆ちゃんとベニヤ板をかたづけて見送りに来たお爺ちゃんとおじちゃん。

2回目の帰りはモジモジせずに手をふることが出来た。

「良かったなぁ桃貰って。そんなおっきい桃お父さんも見たことねぇなぁ」

お土産だね。


その帰り道、途中でカップラーメンを買って貰ってトラックの中でお昼ご飯を食べた。

祖母がスープの味が嫌いと言う事でめったに食べれないカップラーメンがビックリする程美味しくて、いつもあんまり食べれないお昼ご飯が自分でもビックリするくらい沢山食べれてちょっと嬉しかった。

カップラーメンのせいでおにぎりは全部食べれなかったけど半分は一仕事終えてお腹がペッコペコの父が2口で食べてしまった。

その後

「1時まで、お昼寝だな」

と、言った父と少しだけトラックの座席を倒してお昼寝をした。

暫くして私が気が付くとゆっくりベゴ屋さんの門をくぐって敷地内に入る所だった。

あれもうベゴ屋さんについたの?

「んだ、ぐっすり寝ったなぁ。メダカ見て疲れたか」


午後は1回福島の、多分右に曲がって行ったから飯坂町の桃農家に堆肥を運んでそこでもまた、規格外だからと今度は小振りな桃をやはり、ビニール袋いっぱいに貰った。

「めんこちゃんだからいっぱい桃けっと」

父がニコニコしながら私に言った。

桃も〜いらん。

私のこの桃も〜いらん発言は後々まで父の笑い話の一つに登場する事となる。


「トラックつっぺってやぁ、必死にずんつぁまと若ダンナと上げったっけ、やぁっと上がったと思ったれば、今度は娘〜行方不明になってすまって、いゃ〜いや焦ったやぁ〜」

呑んでご機嫌になると飛び出すトラックの運ちゃん時代の思い出話。

「何すったのかと思ったらメダカ見っただど。いゃ〜気ぃ抜けだわ。その後も桃ばり貰うもんだから"桃も〜いらん"だど。めんこいどって何処さ行っても規格外くれてよこすんだ食いたてねがったなぁあの時は。」

父の笑い話の一等特等席に私が居るのが嬉しかった。

覚えていないんだけどトラックの中で私は大きな桃を食べたらしい。半分も食べないうちにお腹いっぱいっと言って父に渡したらしいけど。


運転免許を取得した後、友達と福島を軽くドライブして細い道に近道だと思い入り込んでしまい桃畑だらけの道を迷った事があった。

でも何となく懐かしく見覚えがあり向かう方向が薄っすらわかるような気がして私の当てずっぽうな口頭ナビで無事に国道4号線に戻る事が出来たと言うエピソードを実家で話して、前世の記憶かなぁ等と言いながら姉弟達と笑っていたら父が

「飯坂だべ?そりゃぁわかっぺや、あれだけ堆肥運びに一緒に行った所だおん。覚えてねぇか?桃も〜いらんて言った所だ。」

なんだ前世の記憶かと思って幸子(友達、仮名)ちゃんに自慢したのに。

「前世の記憶でねぇ。何回も行った所だ」

覚えているよ。小振りの桃を貰った所だよね。あぁ飯坂、あそこだったのか。割と近い所にあったんだなぁ。あの日は楽しい日だったな。


父の記憶に小さな頃の私が居るのが嬉しかった。

因みに妹も父のアルバイトに付いて行った事があるみたいだけど気の毒な事に車酔いした記憶しかないそうだ。

姉弟が多いし実家は米農家だったから年中無休で家族みんなで遊びに行った記憶は小学校低学年の頃の子供会親子旅行ぐらいしか無い。

それは他の家族も沢山いたし、父は子供の引率で来た別家族の父親達とすぐお酒を呑んでいたのであんまり楽しいって記憶が無い。

なので父と私の二人しか知らない思い出も数少ない。

その日もやはり父は私がメダカを追って迷子になった話と桃も〜いらんまでをちょっと盛って話した。宮城県の川崎町での行方不明事件も織り交ぜて誘拐されたのかと思ったと。

いや、うちお金無いからすぐ帰して貰えるって。

私が言うとみんな笑ってくれた。

父は娘が居なくなってビックリした日だっただろうけど私は凄く冒険したし知らない人とも喋ったし、大好きな桃も沢山貰えてとても楽しい日だったのだ。


あぁ、なんて楽しい晴れた日の綺麗な思い出なんだろう。


(小学校入学前の記憶なのでだいぶ思い出補正が入っているかも知れませんが笑)







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