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新作映画しか観る余裕がなかった

 やたらめったら映画を見ていた時期を振り返ると、新作映画しか観なくなった今がさみしい。
 当時はお金がなくて時間だけは有り余っていたからレンタルビデオ屋で借りる旧作映画ばかり観ていた。映画館に足を運ぶのは月に1度の楽しみで、その時にかかっている作品の中から1本を選別するのが贅沢な悩みだった。
 それが、働き始めた今はお金は稼いでいるもののとにかく時間がない。映画館に行く予定を立てなければ映画を観ることもない。しかも刺激に対する耐性がなくなってきているのか、家で以前に観たことのある映画ばかり繰り返し観ている方が心が休まる。

 こうなると、もう新作映画しか観る余裕がない。
 2023年に初めて観た映画は34本。リバイバル上映や2度目の鑑賞を含めて映画館で観たのは18本。鑑賞記録を眺めて、なんとなく記憶にある10本だけ並べてみた。少なくともこれで1年を振り返ることができる。



リベンジ・スワップ(2022)

 小学生の頃に無自覚に人を傷つけた記憶で今も頭を掻きむしることがある。自分を含めて似たような経験をしてきた人に向けた作品だと思う。嫌なことに私はうかつな人間なので、思い当たるフシがいくつかある。そういう人を罪の意識でぶん殴りながらも殴るだけで勘弁してくれる。容赦はないが優しい作品だ。
 学園ものが苦手ながら楽しむことができたのは、現実味が薄くファンシーでコミカルですらある“お金持ちの学校”が舞台だからだろう。制服もあってないような着こなしが横行していて、しかもおしゃれだから観ていて飽きない。自信満々で世界の中心を生きる子どもたちの姿を小っ恥ずかしい思いで眺めて、少し懐かしくなった。

 何より魅力的なのが、主人公ふたりの強烈なシスターフッドだ。愛憎入り交じる、ケンカするほど仲が良い、など一筋縄ではいかない絆の形容の仕方は様々だが、彼女らはお互いに復讐を誓うほど憎しみ合っている。
 子供ながら人生で一番強い憎しみの中で相手に手を差し伸べることで、はじめて自分を愛することができた。相手に強く憎しみを抱くほど悪いところを知り合っているからこそ信用できて、しかも一緒に居ると復讐を企てることすら楽しくて仕方がないのだから複雑だ。

 自分が好きな自分で居させてくれるただひとりの人。不幸のどん底にいても手を握り合って這い上がりたい相手。唯一無二の仲間ができる点では憧れを感じる映画だった。


スパイダーマン:アクロス・ザ・ユニバース(2023)

 前作のファンだった。あの1本はひとつの物語として完結していたと思っている。すごく変わったようでいつもの生活に戻った主人公が、唯一無二の仲間、それも世界に1人だけの仲間が何人も居ると知ったからこそ強く生きられる趣旨のラストは素晴らしかった。だからこそ、あの物語が完結していなかったということがすでにサプライズだった。
 でもそれは映画の制作が発表された時点でわかっていたことだ。映画館のフカフカの椅子に座るまでにその驚きは落ち着いていた。しかし、映画館を出た私はあまりのおもしろさとショックと人間不信で笑おうにも笑えず、泣こうにも泣けない状態だった。

 何がショックだったかといえば、今作のトリックの伏線が1作目から回収されたことだ。あの完結したと思えた物語に残された想像の余地は、単なるコミックのファンへの目配せではなかった。今作へとつながる手がかりだったのだ。
 それを思うと、途端に恐ろしくなった。騙されたというと人聞きが悪いどころではなく意味が変わってしまうのだが、そのくらいの衝撃だった。
 あの優しい仲間たちが、あの時にはすでにこんなに残酷なことを考えていたなんて。あのセリフの裏にはこんな意味があったなんて。物語の外にこんな世界が広がっていたなら、あの日の笑顔は、友情は、優しさは。

 物語は根本的に作りものであるという点は置いておく。実物の人間よりも物語の登場人物の方が正直だから好きだった。今はどうか自信がない。


君たちはどう生きるか(2023)

 友達が言った「宮崎駿の内臓の温度を感じた」という感想に基本的に同意している。
 私は物語の主人公に共感するのがうまくないらしい。うっかり感情移入しそうになるような、何の変哲もない平凡な日本人が主人公だと尚更、主人公の顔よりも奥にある作り手の顔が透けて見える。そういう映画は観終わるとぐったりと疲れ切ってしまう。物語を楽しむために入った映画館で、誰とも知らない作り手から目を覗き込まれて「この物語のような“まともな”人生もあるというのにおまえときたら……」と説教されている気分になるからだ。

 友達の感想に話を戻す。私は同じく宮崎駿の内臓(にたとえたその人の感情とか内面的な世界)を観たような気持ちで映画館を後にした。血の匂いがするほどの臨場感でそれを眺めてみて、やはりグロテスクでいいものではなかったと再確認していた。
 できることなら他人の感情のあり方なんて目撃したくないものだ。だって、物語の登場人物と違って生身の人間の中身はたかが知れている。共感すればするほどいいものでないとわかってしまう。でも、そんなことはないと、眼を見張るほど意外で楽しいくす玉のような人もこの世には居るものだと知って驚きたいのが本心だ。

 日本映画には感情の表出と人間の醜さを淡々と描いて共感させようとする作品が一定数ある。私は映画を特別に高尚なアートだとは思っていないので、物語は明るく楽しい方がいいや、という結論に至る。


ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE(2023)

 明るく楽しいスパイ映画の首位をキングスマン(2015)がぶっちぎりで奪い去って久しい。同じ頃のコードネーム・アンクル(2014)もよかった。どちらも大好きだが、私は明るく楽しい映画が好きだけど命を奪うときはもうちょっとシリアスであってほしいというわがままな欲求を自覚できた。

 初めて観たミッション・インポッシブルは4作目だった。5作目以降で監督を続投されることになる人がリライトに入った作品を最初に観たのは幸運だった。たぶんタイミングがすごくよかったか、それより前に観たシリーズ作品を1つも覚えていないかのどちらかだ。 
 このシリーズは適度にバカバカしくスパイ小説らしいガジェットと、ターゲットと観客を同時に騙すトリックと、馴染みのあるチームの機知に富んだ掛け合いと、軽妙洒脱な色っぽさを兼ね備える。私の理想のスパイ映画だ。

 それから、他の伝統ある映画シリーズに比して時代に即した価値観の変化を厭わない作品だと思っている。ヒーローを罠に掛けるために攫われて人質に取られるキャラクターはよく居るが、それがヒーローの恋愛対象でも子供でもないパターンはあまりない。ヒーローに引けを取らないほど強くて共闘する味方のキャラクターもよく居るが、それが異性で愛し合っていてもキスすらしないパターンは珍しい。
 異性愛にも恋愛描写にもこだわらない作品には雑音がない。アクション映画に恋愛は不可欠な要素ではないという本質に立ち返る姿勢があることも好感が持てる。


CLOSE/クロース(2022)

 同監督の作品で日本でも話題になっていたGirl/ガール(2018)を観ていないので、先入観も前情報もなく映画館に向かった。強いて言えばイノセンツ(2021)と同日に観たのでその日は子供が主人公の映画まつりだった。だから自ずと現代劇・子供同士の人間関係・アイデンティティの発見みたいなテーマを自分に課していたかもしれない。

 嫌でも考えさせられる、どうして彼らは離れることになったか、なぜ彼は彼を拒絶しなければならなかったのか、という問題について。周囲の好奇心とか偏見とか、“普通”と違うことへの忌避感とか様々なことが原因に挙げられるだろう。

 彼らの様子を見て「幼いゲイたち」だと捉える人は少なかったのではないかと思う。お互いを恋愛対象として見ている描写が特になかったからだ。
 彼らはお互いに一緒にいるのが当たり前で、もう片方の自分みたいに感じられるとても大切な相手。それは未熟な性愛でも勘違いの執着でもなく完成していて、永遠の感情だったはずだ。

 大好きな人に恋愛感情を持つ必要はない。お互いにとても大切にする存在であっても必ずしも恋愛をする必要はない。他人同士の関係を他人が定義するなんてもってのほかだ。だから、彼らは彼らのままであってよかったはずだ。
 そうなるともしかしてアクション映画に必要ないものはそもそも人生の必須項目ですらないのかもしれない、なんて答えにたどり着いたり着かなかったり。


赤と白とロイヤルブルー(2023)

 社会人になったら学生の恋愛映画も観るようになった。大学生はほとんど大人みたいな生き物だと思っていたが、成人したとして子供は子供だとわかるようになった。

 今作を観て思い出したのは、ハートストッパー(2022)のシーズン1で高校生の男の子が「am i gay ?(僕は同性愛者?)」と検索するシーンのことだ。今の世の中では実際に起こり得るだろう。
 自分がゲイかもしれないと気がついて絶望する子供の描写には、ストレートが“正しい”と広く信じられる画面外の現実の世の中が前提にある。現実で育つ子供にとって、ゲイであることは“間違い”だから、否定しようと躍起になったり、絶望したりする。今、現実はそういう世の中だ。

 近頃の映画や小説などの物語の世界に同性愛の描写が“多すぎる”と感じる人もいると聞く。増えたことに誰でも気がつくほど増えたからだろう。物語が現実のマイノリティに過剰にクローズアップしていると思われるかもしれない。
 実際はたぶんこうだ。ただ、現実に絶望して育った子供たちが物語を作り始めた。もっと言えば、その物語が存在する事実によって彼らみたいな子供達が泣かなくていい段階に近づいている。それだけのことだ。

 今作は現実がまだたどり着いていない物語だ。しかし同時に現実を「女性の大統領とゲイの王子が居る物語」が存在する時点まで引っ張り上げた。これからの現実にはこの物語がある。存在が当然になり、やがて現実になる未来を手繰り寄せる。そういう役割を持った映画だ。


カールじいさんのデート(2023)

 カールじいさんの空飛ぶ家(2009)が「おじいさんと犬は仲良く暮らすことになりました」で終わったとするなら、短編シリーズであるダグの日常(2021)は「仲良く暮らし始めました」の部分をほのぼのと描いている。このシリーズも大変ほほえましく幸せな気持ちになれるので気に入っている。そして本作には同シリーズのオープニングが挿入されているのでたぶん一緒に制作されたのだろう。よく知らないけど。

 DETROIT: Become Human をプレイした時にはあまり腑に落ちなかったことがある。「1人は愛すべき対象を求めていた。1人は愛してくれる存在を求めていた。お互いにとってそれ以外のことは必要なかった」関係の登場人物たちの盲目さだ。でも本作を見ると、なんとなくそれがわかる気もした。
 おじいさんは愛する人を亡くした喪失感から、思い出の家と一緒に、時には文字通り引きずり回しながら旅をした。それはフワフワしているのに重くて、存在感ばかり大きくて、今を生きるのには一見して邪魔にすら思えるのに、そこにあるだけでこの上なく落ち着くことができた。

 そして今、おじいさんの家にはやんちゃで手がかかる犬が住んでいて、友達の心優しい男の子が遊びにやってくる。これを見ると思う。お互いに満たされた関係ってこういうものか。
 だから単純に彼らの楽しい暮らしぶりを見るだけでもいいのだけど、苦しそうに家を引きずっていた彼の手が新しく誰かの手を取ろうとするところを見られてとても嬉しかった。


バービー(2023)

 夏だったし、嵐みたいな映画だった。オッペンハイマー(2023)を観に行こうと考えていたから、日本で公開しないんだろうかと不安になる日々の合間に観に行った。

 バービーのことはほとんど知らない。遊んだことがないし、最初の方でまとめられていたバービーとフェミニズムの歴史のことは初めて触れたくらいだ。作中で説明してくれてありがたかった。序盤から置いていかれるところだった。
 彼女について知っているのは、彼女が“頭が空っぽのブロンド女”の象徴であるらしいこと。人形が抽象化された人間の形である以上、ステレオタイプからは逃れられない。トイ・ストーリー3(2010)にあるバービー人形の有名なセリフ「権力は脅しではなく統治される者の同意から生まれるべきよ」はその前提があって意外性が生きるセリフだった。

 バービーとケンのような先入観がなかったからこそ、アレンのことが記憶に残っている。監督のインタビューでは「アレンはバービーのおまけであるケンのおまけ」「悲しいキャラクター」のように語られていた。
 アレンはバービーでもケンでもない。だからバービーにもケンにも恋をしない。架空の楽園に未練もない。彼が窮屈だからこそ自身の存在に疑問を持ちつつも、自由な選択肢を持つ存在であることがいいと思った。

 できるなら私もアレンみたいに、最初から恋愛至上主義の土俵に上がらない存在でありたかった。もしくはバービーみたいに、土俵に上がったうえで誰の手も取らない選択を許されたい。


ナチスに仕掛けたチェスゲーム(2021)

 嫌な気分にさせられる映画だ。
 自分のベッドで繰り返し「目を覚ます夢」をよく見る。いつもの調子で目を覚ますと四肢と頭が鉛のように重くて、体を起こしても起こしても腕が絡まって、脚がもつれて、終いには動けなくなってしまう。誰かに助けを求めようにも声が出ない。床に落ちたり壁に頭をぶつけたりしながら泣いてもがき苦しんで、ハッと気がつくとまた「目を覚ます夢」が始まるという具合だ。

 似たような感覚で、人間が焦燥した挙げ句に人生が、悪夢が、生活が、幻覚が溶けて混ざり合うようにドロドロに崩れ落ちていく様子にすごく嫌な気分にさせられた。それが見慣れた夢を見た後のようなリアルな“嫌な気分”だったことに興奮した。こういう映画は大好きだ。

 私と主人公の間に共通点はほとんどない。歳も離れているし、住んでいる場所も年代も違う。彼みたいにいい暮らしをしているわけでも、自信があるわけでもない。ただ、私はうつ病を患って数年経つので、入院中の世の中から隔絶されて恒常的な不快感のある毎日とか、相性が悪くて使用を中止した薬を服用した時のフワフワとした感覚とか、何をしても無駄に思える日々の度し難い憂鬱とかを嫌々ながらも思い出せる。

 主人公がああして逃げ切ったことに対して、私はやや希望的な感想を持っている。彼はそこに逃げ場がない中でよくやり遂げたと思う。


ジョン・ウィック:コンセクエンス(2023)

 ルールがなければ社会が立ち行かないことは殺し屋だって知っている。だからこそルールを築いて必ず守る。ジョン・ウィックが見せる無法者たちの裏社会は芸術的なほど秩序正しい。

 コンチネンタル・大阪は六本木にある国立新美術館の外装を借りている。ガラス張りの翼を広げた鳥みたいに緩やかに波打つ外壁は、見るからに垢抜けていて潔癖な印象を与える。そこで繰り広げられる戦いには当然のように美術品らしき物が大量に巻き込まれることになる。
 また、パリで主人公が侯爵と決闘する場所を協議する際には、侯爵がポンピドゥー・センターを候補に挙げて却下されていた。あの建物もガラスと金属が共存する無機質で繊細な顔をしている。実際、うってつけの広場もあるし、決闘するにはもってこいの場所だ。

 ただそれがなんとなく覚えがある絵面なのは、このシリーズでこれまで戦闘に芸術が絡む機会が度々あったからだろう。命のやり取りを芸術と同じ場所に置くこと。もしくは同じ括りにいれて、同等に扱うこと。この殺し屋たちの社会に神秘的で不可侵なイメージがあるのも無理はない。

 たぶん観客は、ルールが存在することやルールを発見することが好きだ。ルールがわかれば社会の一員になれたような気がする。しかもその社会があまりにも魅力的に見えるので、私達は喜んで彼の行方を見守るのだと思う。



 一年の締めくくりに、と思って書いていた文章が書き上がまでに年を越してしまった。でもこれを額に入れないと先に進まないので、新年早々、遅ればせながらふりかえりを行うことにした。

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