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「堪忍袋の緒が切れる」についての、ごく私的な解釈と最近の堪忍袋の傾向について

かんにん‐ぶくろ【堪忍袋】
我慢のできる量を袋にたとえていう語。

※goo辞典より

元々は、歌舞伎の外題(サブタイトル的な?詳しくなくてすみません)だか?らしい。辞書だと、「怒りの我慢のキャパ」という意味ですか。共感出来る部分もあるけど、なんかしっくりこない。私的に「堪忍袋」とは、「怒りだけでない、喜怒哀楽含む心や、その人自体が自覚的無自覚的区別なく内包する、キラキラもドロドロも混在する得体の知れない感情のマグマ」のようなモノが入ってる袋なのではないかなあと、勝手に思う訳です。勝手に定義して、以下、勝手に進めます。

では、「堪忍」(かんにん)という言葉単体の意味だと、

堪忍 [名](スル)
1 怒りを抑えて、人の過ちを許すこと。勘弁。「悪かった、—してくれ」

2 肉体的な痛みや苦しい境遇などをじっとこらえること。我慢すること。忍耐。

「且 (かつ) 力を尽し且—して時節を待つ可きなり」〈福沢・学問のすゝめ〉
※goo辞典より引用

堪忍は、堪え忍ぶこと。らしい。だから、堪忍袋って、「怒りの感情を収めてる袋」だという印象ある。上で示した通り、私は、怒りも含めた喜怒哀楽やそれ以外のもっとドロドロな感情の原液が入ってると思っている。何故なら、そう説明すれば、今起こっている世の中の悲惨な事件や多く報道される自死について、辻褄というか説明がつくのではないか、と思うのだ。

では、その「緒」(お)ってのは、なに?

緒 ①いとぐち。物事の起こりはじめ。「緒戦」「由緒」 ②すじ。つづき。つながり。「一緒」 ③こころ。「情緒」 ④ひも。お。「鼻緒」
※漢字ぺディアより引用

「堪忍袋の緒」における「緒」は、④ひも状のモノのを指す言葉。堪忍袋でいえば、その中身が出るのを調整する、「筋」筋肉や腱のようなモノでしょうかね。

「へその緒」ってのは、まさに母体から胎児が産まれて、その緒を切ることで、一人の人間として出発する為のひもだし、「下駄の緒」ってのは、「緒」が「足」と「下駄」を一体にすることで、外で足を汚さず安全に歩く目的のひもだが、転んだりして無理な力が加わるとちぎれたりするし、または、室内に入るために脱ぐことも。目的が果たされたら別々になる。

以上の理由から、「緒」→『ひものなかでも、元々別々のものや別々になる運命のものを、何か特別な目的のために一つにまとめたりつないでいるひも』で『事態や目的が変わった場合に、引きちぎって(またはちぎれたりして)解放、離別する類のもの』と、想像して解釈。

堪忍袋の「中のモノ」

上にも少し書きましたが、堪忍袋の中に入っているものってのは、喜怒哀楽や、その人の根本にある野生的で本能的なものであったり、秘めた気持ち、心やその人がその人であるためのプライドや、またはアイデンティティ。その人を物語る、その人の尺度や先入観。もしかしたら外に出たら1発アウトな願望や欲望。その人さえも言語化し切れてない、非常にキラキラした尊いものや、はたまたドロドロの、人には言えないマグマのような感情の澱や、願望のヘドロのような真っ暗な闇なども混在して入っているのだと思う。

その「中身」と「社会」の辻褄を合わせるべく、コミュニティに生きる人として、外に出過ぎたり漏れ過ぎたりせずイイ塩梅で「緒」によってコントロールされている状態が、通常の状態なんでしょうね。

「堪忍袋の緒が切れるイコール」🟰「キレる」?

「キレる」→「自制が効かず、つい、カッとなって殴ってしまいました」ってのは、昭和平成の時代の話。なぜならば、今の世の中はその「ブチギレ」発言や言動は1発退場、非難、揶揄され、謝罪を強いられ、説明責任を求められる時代になったから。キャンセルカルチャーは、その人のそんな言動を理由に、「社会的」に抹殺しにかかる。

なので最近は「堪忍袋の緒が、切れかかる」ところでストップし、「自死を選ぶ」ケースが増えているような気がします。

例えば、いじめ。いじめる側は、ターゲットをいじめる事で「生命の危機」「人格崩壊」まで追い込んで、その尋常ならざる様子を楽しむという、本来ならばそこが一番卑劣であり、もっとも非難されるべき行為。いじめを受ける側は、いきなり様変わりした日常に混乱し、「なんで自分が?!」「なにかやったっけ?」理由も明確な根拠もなく、いきなり残酷ゲームの標的に。今現在の生活から、喜びが、色が、光が急に無くなる。解決の糸口もなく、いつ終わるともわからないこの状況を、ただただ耐えて受け続ける絶望。味方もなく、仮に自分が何かアクションを起こすことで友人、親、兄弟にも少なからず迷惑をかけるかも。。ならば、心を殺して、ただひたすらに、日1日1日をやり過ごせば。自分が我慢すれば。

そして、心が壊れ始める。「堪忍袋の緒」が機能不全を起こして、ドロドロな感情が体内に漏れ始める。目も背けたくなるような、自分の中から発せられるグロテスクで真っ黒な感情。殺意。そんなモノがもし、自分を介して外に溢れ出たならば。。自分の中に溢れる「負の感情」を目の当たりにした自己嫌悪と、それが徐々にコントロール出来なくなってきている恐怖。。「そんな自分はダメな人間、自分がいじめを受けるに当然の人間」だと、自分自身でも思い込み始める。。

「感情に任せてキレること」が、「とても自分勝手で、よくない事」だという社会通念的刷り込みが強固であればあるほど、上記の事態を膠着させ、「無力感」「劣等感」「絶望感」はより「自死」へと誘う。。

(または、自死でく、「一矢報いよう」と大量殺戮や無差別何たらを引き起こすという、「解放」がとんでもない方向と方法に突っ走るケースも。)

私は専門家ではないが、いじめられてる人は、どんな事情があっても、まずは一刻も早くそんなコミュニティから距離をとり、「関係を切って」欲しい。人の「生きる希望をも蝕む社会(コミュニティ)」なんて、そもそも間違っている。そこで達成/成就できるモノが何であれ、かけがえの無い大切なモノを引き換えにする危険がある。

年収や偏差値などの客観的な数字の勝ち負けなんて、分かりやすい達成感の目安や到達ポイントでしかない。自分なりに「どこに勝ちを置くか?」は、個々人の自由。「勝っても負けても、重っちい兜の緒は外して、身軽になって、まわりに邪魔されず、まわりを邪魔することもせず気分よく生きましょう」のほうが、幸せが広がる気がする。周りが良くなって、結果、自分も過ごしやすくなるってことは、これ「勝ち」だし本当の意味で「価値」なのではないでしょうかね?

もう一度言います。自分を大切にしてくれないどころか、人格を貶めてくる環境ならば、早々に距離を置きましょう。自分の堪忍袋の緒が切れる前に、そことの関係を切りましょう。自分を大切に。

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