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逃げ遅れモブ死しそうになった話

パニック映画や特撮の冒頭で、おかしなことが起きているのにぽかんと状況を見つめていて逃げ遅れるモブがよくいる。
まあ、物語であればそういう役回りなのだが、現実でそのモブになったことがある。

コロナよりはるか前、独身時代の話。

新宿三丁目付近で友人とショッピングをしていた。
紀伊國屋書店から出て、そろそろお茶でもとなったとき、通行人の多くがざわざわと空を見上げているのに気づいた。
つられて見上げるとビルの向こうの青空が地平線の方向からじわじわと茶色とも灰色ともつかない色に変わり始めていた。その面積は瞬く間に広がっていく。あとから考えると、テレビで見た蝗の大群の飛来が1番似ていた気がするが、ともかく空の色が見る間に見たことのない色に変わり始めたのだ。
通行人の多くは驚いたように立ち止まったり、写真や動画を撮るためスマホを掲げたりしていた。
「なんだろあれ」
「雲の色じゃないよね?」
見たことのない現象に私と友人も足を止めて空を見た。もう空は茶灰色に曇り、遠くのビル群がかすみ始めた。
その時点でただの変な色の雲ではないことは明らかだったのだが、アホな私は「初めて見る気象現象だな」とぼんやりと空を見ていた。周囲も、少なくとも急いで避難しようとするような人は見当たらず、空を見上げてガヤガヤするか、見向きもせずに歩みを進めているひとのどちらかだった。

そして、次の瞬間、薄汚れた色の霧のようなものに新宿の街全体が包まれた。

「うわっ、なにコレ!?」「痛っ」「きゃあ!」
困惑の悲鳴が上がった。
謎の靄に包まれた全員が咳き込み、目を抑え、うめきながら地下や建物に逃げ込んだ。
靄に見えたのは細かな土埃の塊だったのだ。
目はジャリジャリで開けられなくなり、口や鼻に砂埃が入ったひとは激しくむせていた。
強力な砂かけババアが、突然新宿の街のど真ん中にに現れたようなものだ。
その時まで砂かけババアに脅威を感じたことなど一度たりともなかったが、砂埃でも頭の上からくまなく振りかけられると立派に凶器だと初めて知った。
あるいは桜島に見守られし強屈なる島津のつわものであればこんな火山灰でもないただの砂などおそるるに足らないのかもしれないが、軟弱な油断しきった都会っ子には効果は絶大であった。
通行人は我先にとお店や地下道に逃げ込み、目薬やマスクを購入したり、埃にまみれた姿を立て直そうと手洗いに走った。
はじめから建物の中にいた人は咳き込みながら駆け込んで来る人々のすがたに、毒でもまかれたと思ったのかあわてて入口からより奥の方に逃げ込んで行った。何事かと駆けてきた店員は薄茶の砂埃と人が消えた通りを見てあ然としていた。
幸いその現象は長くは続かず、十分くらいしてから恐る恐る外に出たときは、道や窓ガラスの汚れに痕跡を残しつつ収束していた。
「これ、噴火や隕石なら全滅してたよね」
見事に逃げ遅れしかいなかった新宿の街を眺めつつ、自らも逃げ遅れた友人はぽつりとつぶやいた。私は深く同意した。
幸い目に入った砂はたいしたことはなかったが、映画なら確かにモブ死していたところだった。

後で知ったところによると、これは風塵や砂塵の一種で、種を植える前の裸の畑の土が強い風で飛ばされたことによる自然現象だったらしい。農耕の盛んなエリアでは春先になるとよくあることらしいが、その年は風が強すぎて関東平野の畑の土の一部が都市部のど真ん中まで飛ばされたため、あの事態を引き起こしたらしい。
完全に不思議な現象をのんきに見学してしまって逃げ遅れた私は、それ以来、映画開幕のぼんやりモブを笑えなくなった。

余談だが、空から砂がふった現象について調べていたときに、砂かけばばあを単独のお婆さん型妖怪とみなすようになったのは昭和からで、元はたぬきや鼬の仲間のいたずらとみなされていたという無駄な知見を得た。しかし肝心のなぜ砂を投げつけてくるのかについてははっきりとは分からなかった。

時は流れて2022年。
友達と別れて新宿駅を目指していたとき、地下道の前方から人が怒鳴る声と悲鳴が聞こえてきた。
私は何事かとキョロキョロしていたのだが、その場にいた通行人の半分がぴたりと止まって逃げの体勢になったことに驚いた。
やや遅れて通り魔が出た可能性に気づき私も身構えたが、騒ぎが逆方向に遠ざかっていくのに気づいて、構えを解いてまたあるき出した。
しばらく歩くと改札付近の通路で人が数人座り込んでいた。漏れ聞こえる会話から拾い上げたところによると、どうやらヘルプマークをつけたおばあさんを見知らぬ男が「邪魔だ」と突き飛ばし、別の通行人の男性がそのことを咎めると逃走。しかも逃走の際に無関係の女性や杖をついた人にわざと体当たりして複数人を転ばせながら逃げたのだという。
座り込んでいた人は突然知らない人に突き飛ばされたショックで動けなくなっただけで、全員怪我はなかったようであったようだが、ほぼ通り魔である。駅構内お客様トラブルのカテゴリに入るのは釈然としない。
それにしても、異変を感じた瞬間にぴたりと止まったり、地下道直結の店内に逃げ込んだり、身構えたりした人の多さに日本の安全意識も変わってきたのだなとなんとも言えない気持ちになった。

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