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エッセイ~人見知りについて~

みなさんは人見知りはするほうでしょうか?
私はといえば10~20代あたりはしていましたが、
年を取るとともに薄れてきました。

例えば公共の路上で弾き語りをするという行為。
人の目に晒されるという意味での緊張感はありますが、
そこで見ず知らずの人とコミュニケーションを取ること自体には
特に気負いも感じられなくなったと思います。
自分の中では気付かぬうちに、徐々にそうなっているので
ここらでその変化について掘り下げてみようという試みです。

まず「人見知り」はなぜ起こるのか、自分なりの見解ですが、
①相手がどんな人か分からないことへの警戒心
②心を開く=見せたくない自分も相手に知られてしまう
③①、②の複合により相手に主導権を握られてしまう
④苦手な相手だと発覚した場合、対処難易度が高い

箇条書きで色々書きましたが、
分からない相手に対しての警戒、またリスクを考えた際には
当たり前の心理、行動だと思います。

続いてなぜ自分の中で「人見知り」が薄まっていったか。
①で言うと単純に人間のデータの蓄積によるところかと思います。
「分からない、カテゴライズできない人間が減っていった」とも言えます。
仕事柄接客業もしていましたし、趣味では人前で演奏するなどで
自然と鍛えられていったということもあります。

③に関係した話だと「大人と子供」格差も
人見知りに繋がっていたと思います。
そもそも子供から見た「大人」って
自分とはかけ離れた存在ですよね。
「しっかりしている」「社会性がある」「子供を教える立場」。
そうした格上の相手に対して、対等のコミュニケーションは難しいと思いますし、緊張するのは当たり前。
そして格上の相手と認識している=自分はまだ弱い、未熟な立場
だということも薄々認識していることでしょう。

これの延長線上として「大人」になった青年期、
自分が世の中の「大人像」とかけ離れていたり、
自分の中にある「子供の名残り」に
少なからずコンプレックスがあった時代。
自分の弱さを人質にとられたくない、隠さなければならない。
その状態では相手への警戒心は高まるばかりです。

ただ①~④の状態でもコミュニケーションを重ねるにつれて見えてきたのは、
「相手も完ぺきではない」「相手にも弱い部分はある」ということ。
今までは世の中の「大人像」=相手だと思っていたんですね。
でも段々とそうではないと分かってきて、
「なぁーんだ、みんな同んなじじゃん」というのが今。
そうした余裕が生まれることで、
相手への許容にも繋がるのではないかと思います。
とはいえ「自分を強く見せたい」欲は健在なので、
うまく弱さを見せ合える熟練者にはまだまだ遠いですね。

また相手によっては②の開示によって
誇張して風潮されたり、
過度にマウントを取ってくる場合もあるので
開示の選択やタイミングは難しい部分が多いです。

さらに言うと人間は段々と「弱さ」だったり「粗」を見つけるのがうまくなります。
相手のそれを見つけた後、それをどう扱うのか。
人に害を成さない「弱さ」はむしろ「個性」であるし、
いい意味でお互いそこを面白がれる関係性、理解力を築きたいものです。




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