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エッセイ~引退について~

野球で原辰徳監督が引退を表明したというニュースが
たまたまテレビから流れてきました。
引退セレモニーを見ていると、
去り際のかっこよさみたいなものを感じました。

一つ断っておくと、普段私は野球は見ない人間なので
相互関係については何もわかりません。
契約を1年残しての引退が何を意味するのかも知りませんし、
ただ画面からは次の世代に託すという潔さ、
また悔いなくやりきったんだろうなぁという感想だけ。

そしてこれをきっかけに「引退」するということについて少し考えてみたいと思いました。
誰しも年を取れば第一線から身を引くタイミングがあると思います。
主に仕事面において、最終的には人生自体に。

サラリーマンであれば「定年」という定められた基準がありますが、
政治やスポーツ選手、アーティストなど自分で決めなければいけない職種もあります。
スポーツであれば結果主義ですので、
身体的衰えが出てくれば、自然と引退に直結するのも当たり前。
囲碁や将棋など知的な分野に関しては
もう少しスパンが違うのかもしれませんが
やはり適齢期というものが存在するはずです。
政治に関してはどうでしょう。
「引退」もなければ、ポストにしがみつくこともできる(?)という少し特殊な世界なように思います。



今回の焦点は「引退の必要性」について。
「引退」というのは必要なのか?
引退しない世界での懸念としては、
「ポストが限られている中で椅子取りゲームが回らない」

これに関してずっと椅子に座りっぱなしの人がいるため
次のゲームが始まらない状態とも言えます。
椅子に座れないまま周りを囲む人たちが増え、
「椅子に座れないなら目指してもしょうがないな」
とその業界自体の人口が減ることに繋がります。

突飛な例えをすると、もし命に「引退」がなかったら地球という限られた資源が枯渇し、衰退していくでしょう(そうしたら宇宙に行くのかな?)。
生物として流動していくこの世界の理が合理的でもあるのです。

じゃあ「年を取ったら何もできないじゃないか」という意見も出るかもしれません。
若者とフラットに競えるor競合できるなら、それでいいとも思います。
ただ長い目で見た時、組織も新陳代謝しなければ続いていけません。そのためにはプレイヤーとしてだけでなく、引継ぐことにシフトする必要性が求められるのは必然なように思います。



若者には「生きるために勉強が必要だよ」というように、
年を取れば「引き継ぐための経験が必要だよ」
という耳が痛いような話なのかも。
そしてどちらも地続きであるはずなのに、
ついつい胡坐をかいてしまうことへの違和感。
私個人はそもそも椅子に座るまでに辿り着けないのですが(w)、
勝ち取った椅子に思い入れがあればあるほど
執着してしまう気持ちは想像に難くありません。

「去る美学、価値」は「利己」と相反する部分があるからこそ、
普段の価値基準を「利己」以外に置く、
価値感の多様性、分散が大切なように思います。




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