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蛙の独唱 《解決編》

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 横断歩道の前には、江久と宇賀親子が立っていた。翌日が平日であることを考えると自分の出した結論を時間を掛けて伝えるには今日中の方が良いと考え、江久は礼一に電話を掛けここに呼び出したのだ。

「それで、どうなんですか!?全部判ったんですか!?」

 と、興奮気味の凜と押し黙っている礼一を見ながら、江久は咳払いを一つして、

「初めに申し上げておきますが、今から私が言うことに関して証拠は何もありません。ですからこれが真実かどうかは警察が再捜査してくれるかどうかに掛かっています、宜しいですか?」

 二人が頷くのを確認して、江久は道路を指差した。

「今回の事故のポイントは唯一つ、【何故、宇賀恭介さんは阿久津心音さんを襲ったのか?】という一点に尽きます。恭介さんと阿久津さんに面識は無いようでした、では偶々目についた獲物を襲ったのか?私はそうは考えません」

「それはどうしてですか?」

 と、礼一が言った。

「いくらなんでも時間と場所が危険すぎます。事故が起きたのは人が増えてくる午前十時という時間帯、そして横断歩道というそこそこ目立つ場所です。後先考えずの犯行だった可能性もありますが、もしそうだとしても、わざわざ正面に立つというのは不自然です。背後から襲いかかった方が不意討ちとなり、確実だと考えられます」

 江久は指を立てると、

「つまり、私が言いたいのは【恭介さんは女性を襲うつもりはなかった】というのが私の考えです、では阿久津さんにした行動の意味とは何だったのか?ところで、奥さんにお聞きしたいのですが…」

「は、はいっ、何でしょう?」

「恭介さんはそそっかしい人とおっしゃっていましたが…例えばですよ?もしこの横断歩道の前で私が俯いていて、信号が青になっても渡らなかったら恭介さんは『彼は車の前に飛び出して自殺する気かもしれない』なんて考えたりするでしょうか?」

「そうですね…あり得ると思います。あの人は心配性で、早とちりもよくしていました。そしていざそうなってしまったら直ぐ行動に移してしまう人だったんです」

 凜は少し懐かしそうに言った。それを聞いて江久は、

「では、今から私のする説明通りの事をしたとてもおかしくは無さそうです」

「教えて下さい、父は…一体何の為にあんなことを?」

 礼一の震えた声に江久は頷いた。

「では、私の考える事故の流れを説明します。まず前提として、女子大生の阿久津さんがこの横断歩道の前に立っていました、そして阿久津さんから見て左側…車が前からやってくるのが見えるように歩いてきたのが恭介さんです」

 江久は左に少し歩き、振り返った。

「そして歩いていた恭介さんは【あるもの】を見たんです、だからあの行動に出たと考えます」

「あるもの…?」

「これです」

 江久がスーツの内側から取り出したのは何かのコピーのようだった。

「ここから少し歩いたところに電柱と、その前に花束が置いてありました。最初は恭介さんへの献花かと思ったんです。しかし、それにしては余りにも位置が離れ過ぎている、だから私はこのことに気付くことが出来た」

 江久はコピーを二人に見せながら、

「お二人にとっては…あの日に起きたことこそが全てだった。しかし、世間は決してそうでは無かったんです」

 江久が見せたのはとあるトラックが電柱に衝突し、運転手が死亡したという事故の記録だった。しかし、それを見ていた礼一は、

「あっ…これって」

「その通り。この事故は恭介さんの事故と【同じ日に起きた】事故なんです。そして…」

 江久は横断歩道を指差した。

「そのトラックはこの横断歩道をこちらから見て、右から左に猛スピードで走って行き、その先で電柱に衝突しました」

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「恭介さんは、青信号を渡ろうとしていた阿久津さんと、全くスピードを落とさないトラックを見て『このままだとあの人が轢かれてしまう』と考えたのではないでしょうか、だからまずは阿久津さんに向かって思いきり『危険だ』と、叫んだのでしょう。しかし、それが阿久津さんには聴こえなかった」

「ど、どうしてですか?」

「彼女はイヤホンで音楽を聴いており、フードを被っていて周りの音が聴こえにくい状態でした。また、フードを被っていた為、多少視界が狭くなっておりトラックが来ていたことに気付かなかった可能性があります。付け加えるならば、この時期は市議会議員選挙があるので演説カーが丁度やってきて、恭介さんの声を演説が掻き消したのかもしれません」

「それから…どうなったんですか?」

「『声に反応しないならば直接止めるしかない』と、恭介さんは阿久津さんの前を塞ぎました。しかし、彼女が自分を通りすぎようとしたので仕方なく掴んで止めようとしたのです。しかし、そこに【トラックが通り過ぎるまで見えない方向】である恭介さんと反対側から小野谷さんがやって来てしまいました。何の事情も知らない小野谷さんから見れば、『男性が若い女性に襲いかかっている』ように見えたとしても不思議ではありません。だから小野谷さんは、恭介さんを取り押さえようとした」

 江久は、頭を指でつつきながら、

「そして、そこで恭介さんは初めて自分が暴漢だと誤解されていることに気付いたのです。だから彼は「違う、違うんだ」と誤解を晴らそうとしました。しかし、小野谷さんからすればこれは言い訳にしか聞こえないでしょうね…恭介さんも焦って言葉足らずになってしまった」

 凍りついたように動かない宇賀親子を見つめながら、江久は推理の締めに入った。

「恭介さんは『このままだと逮捕されてしまう』といったことを考えた筈です。問題のトラックはきっと、既に通り過ぎた後でしょうし…仕方なく彼は逃げることにしました。しかし、彼は赤信号になっている事に気付かず…」

 江久は溜息をつくと、「以上です」と、静かに言った。

「これが…真相なんですか?こんなことであの人は…」

 絞り出したような声の凜に、江久は答えた。

「先程も申し上げた通り、この推理に証拠はありません。これが真実ならば悪いのは恭介さん一人では無かったことになりますが…それも証明することは難しいでしょう。私の推理は、恭介さんが悪人では無かったという、お二人の言葉が前提です。言わば…お二人を救う為だけの推理です」

 江久はスーツを整えながら囁くように言った。

「世間に対して公表をするかどうかなどはお任せしますよ、私に出来るのは…ここまでだ」

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 宇賀親子が去った後も、しばらく江久は横断歩道の前にいた。

 江久にとって、この推理を話すべきかどうかは最後まで悩んだ問題だった。依頼人を救う為に、確実ではないことを言っても良いのか…しかし証拠を掴むことは不可能といって良い。だから、可能性としてあくまで話すことにしたのだ、この判断が正しかったかどうかは、後になってみなければ分からない…と、江久はすっかり陽が落ちた空を見て思った。

 帰ろうとした時、何処からか蛙の鳴き声がした。しかし、冬なので蛙は本来は冬眠してる筈である。

 答える相手がいない蛙の鳴き声が、しばらく江久の耳の中で響いていた。

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