マイルスデイビス〜ジョンマクラフリンそしてジェフベックへ その1

マイルスデイビス、彼は言うまでもなくジャズにおけるレジェンドである。彼はビバップ全盛の頃にデビューし、ビバップの代表格とも言えるチャーリーパーカーのサポートとしてチャーリーのユニットにも参加したことがあるトランペッターである。
マイルスデイビスはその当時のジャズミュージシャンとしては珍しく、ジュリアード音楽大にて正式に音楽を学んだ音楽におけるアカデミックエリートでもあった。
今でこそバークリー音楽院など、クラシックではなくジャズを学ぶことに焦点をおいた音楽学校はあるがマイルスが若かりし頃はジャズを専門に教育する教育機関はなく、彼が音楽を学んだジュアード音楽大は主にクラシックミュージックを教育するための音楽大学であった。
ジュリアード音楽大はいわゆる音楽を学ぶことを志す学生にとって名門大学であり、その存在は日本における東京音楽大学に近いものがあったと思う。

しかしそこで正式な音楽教育を受けたマイルスデイビスはクラシック音楽に行かずジャズを選んだ。
当時のジャズはいわゆる黒人のための音楽であり、極端に言えば黎明期のラップの様なものであったろう。いわゆる白人は積極的に聴くことを好まず、若い黒人が好んで聴く音楽が黎明期のラップミュージックであった。
どの映画か忘れたのだが、ヒッチコックの映画を見ていた時に、字幕で今のアメリカの音楽はどうだい?という質問に対し他の俳優の答えが字幕では、いや、今は騒々しい音楽が流行っててねえ、と答えるシーンがあるのだが、明らかに英語で話しているセリフではビバップっと言っていた。
黎明期のラップは白人にとっては同じ様な感覚だったことは想像に難くない。

さてビバップ登場以前にもジャズミュージックというジャンルはあった。スウィングジャズである。その代表的ミュージシャンはデュークエリントンやカウントベイシー、彼らは黒人であるのだが当時の白人層にも聞きやすいある意味BGM的なジャズを提供していた。時は第二次世界大戦中、彼らの楽団は第一線の戦士たちの慰問のために比較的大規模な楽団を連れて各戦地を回っていた。
この様に誰の耳にも聴きやすいスウィングジャズと異なり、ビバップはある意味非常に攻撃的なジャズの一形態であった。ビバップの成り立ちについては諸説あるだろうが、自分が1番もっともらしいと思うことを以下に記述する。

ビバップはⅡ-Ⅴのコード進行、時には循環コードと言われるコード進行の上で各プレイヤーがありったけのエゴと情熱をぶつけてアドリブでソロを吹きまくるあるいは弾きまくるジャズの一形態である。そのプレイはある意味わがままで自分のアドリブパートが回ってきた時はそのプレイヤーに全権を渡す。
なぜこれが許されたのか?
彼らは基本的にレストランなどに雇われたミュージシャンであった。
お店の営業中の彼らの仕事は白人を中心とするお得意様にスウィングジャズのように心地よい音楽をBGM的に提供することであった。
仕事は仕事、当然雇われたミュージシャンは心地よいBGMを調和的に提供するのが責務である。

しかし一旦営業が終わればその仕事は終わり。その後ミュージシャンたちは何をしたのか?
仕事といっても彼らは自分が演奏したかった音楽を演奏していたわけではない。
そこで彼らは営業後の店のスペースを借りて何時間も何時間も、時には朝まで自分たちがやりたい音楽を営業抜きにセッションを続けた。アドリブパートを各自で回し、複雑なコード進行も取り入れ彼ら黒人ミュージシャンはありったけのジャズへの情熱をお店の営業後にぶつけたのである。
それが後々ビバップに繋がったのではないか?諸説ある中で自分が1番納得できる説であるのだ。

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