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三宮銀三郎 第五話:ひょっとこ(前)

第五話:ひょっとこ(前)

時は嘉永二年の桜咲く頃。舞台は神田天翔場。

三宮銀三郎(松井前の色男)は、天翔墨翰場の顔となりつつある。

舞台には高橋庄太郎(堺の火男)も登場する。彼は礼節をわきまえず、人を見下し、男とみれば喧嘩を売り、女とみればからかうという外道とも呼ばれる存在である。高橋は朱墨を使い、作品における紅と黒の濃淡で見るものを圧倒する。

高橋は頭の後ろにひょっとこの面を被り、紅の着流しを身にまとう。頭には手拭いを巻き、その端を顔の前に垂らしている。

「西方、堺の火男、高橋庄太郎」と呼び出しの言葉が響くと、高橋は客に背を向けて舞台に尻をつき座る。胸を張り、後ろ手を床につける様子は、ひょっとこの面が頭を下げ挨拶をしているかのように見える。

銀三郎は動じずに立ち、しかし客たちはどよめく。高橋が何を言い出すのか、その恐ろしさを知っている客は多かった。

「松前の色男とは、これは大きくではりましたな」と高橋は言う。ひょっとこの面はまるで銀三郎にかぢついているようにも見えるが、高橋の言葉には嫌味が込められていた。

「また、確かに色男でんな」と高橋はちらりと銀三郎を見やった。「照れないな。あては、色男が嫌いやねん」とさらに高橋は胸を張った。ひょっとこはさらに頭を下げることになった。

「爺ぃ、二畳敷や!」高橋は舞台の袖に立つ天翔の主を見ながら言った。

二畳敷とは、その名の通り、三割畳の紙を六倍の二畳にすることである。

それは紙が広くなるという単純な話だけではない。二畳敷とは、勝者が双方の報酬をすべて総取りすることを意味する。銀三郎が「受ける」必要はあるが。

高橋は顔を天に向けて、「逃げはしまへんわな」と銀三郎に問うた。

「あい、わかった」と銀三郎が答える。

「あい、わかったやて」と高橋はついに床に仰向けに寝転んだ。ひょっとこは床に這いつくばった形となる。観客は誰一人として笑わない。空恐ろしさすら感じているのだ。

「気に入らん、気に入らん、気に入らん」と高橋がつぶやいた。「なんもかもや。お前もお前もお前もお前もお前も全員気に入らん」と呼び出しや出題役、見届役を指さしながら高橋が叫んだ。

高橋は素早く立ち上がり、観客に向かって言った。「なんでも好きなお題を言うてみなはれ、こいつを叩きのめしてやるさかい」。

出題役は「江戸の火事」とお題を示す。

しかし、これもまた火を描くことを得意とする高橋の策略、仕込みであった。

「お題は江戸の火事!」と呼び出しが舞台を降りた。

高橋はひょっとこの面を外し、投げ捨て、手縫いを再び締めなおした。朱墨の桶に筆を浸し、二畳敷の紙に筆を落とした。

(次回へ続く)