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三宮銀三郎 第八話:日本橋の商才、木下蓮斎

第八話:日本橋の商才、木下蓮斎



時は嘉永元年、日本橋に誇る大店「三藤(ミツフジ)」がそびえ立っている。その敷地は広大で、豪奢な建物が誇示されている。この店の創業一族の苗字は木下といい、かつて木下藤吉郎の後ろ盾となった近江出身の家系である。木下はその藤吉郎(のちの羽柴秀吉)によって与えられた姓である。

時代の終わりになって、三藤には二人の商才が同時に現れた。一人は番頭の蟹江吉右衛門であり、彼は算術に優れ、「株元」という新たな仕組みを生み出し、三藤の経営を大いに拡大させた。

もう一人は操業一族の血を引く木下蓮斎である。彼の父は蓮斎に商いの手ほどきをするため、彼を丁稚奉公に出した。蓮斎はその教えに応え、わずか12歳で経営に関与する立場となった。彼は「株元」の仕組みを理解し、自ら三藤の株元を買い集め、21歳で筆頭となった。当時は誰もがその意味を理解していなかったが、蓮斎だけがその可能性を見抜いていた。彼は父に最高経営権の譲渡を迫り、ついにその望みを実現させた。

また、蓮斎は広く人脈を築いており、その足跡は飛脚に匹敵するほどであった。

ある時、蓮斎は隣の大店が京橋に墨翰場を開くと知り、自身が出遅れたと漏らした。すぐに彼も神田に墨翰場を開き、そこに一流の墨翰師たちを集めた。

三藤は小岩に数件の長屋を借り上げている。そこは奉公人のための住居や松前藩士の宿舎として提供されていた。奉公人のお陽は年季が明けて実家に戻ったが、父寅之助を亡くし、孤独な身となっていた。蟹江は再びお陽を雇い入れようとしたが、お陽は「小郡家の再興のために」と断り、しかし蟹江はお陽がいつでも三藤に戻れるよう、目の届く小岩の長屋に彼女を住まわせた。

隣の一間には松前藩士三宮銀三郎が引っ越してきた。銀三郎は時折子供たちに読み書きや算術を教えるが、ある時、大人たちも学ぶべきだと、塾を開くことになった。その塾は彼の名前から「三銀塾」と呼ばれ、長屋の住人たちは熱心に通っていた。お陽もまたその塾に通い、彼女は密かに銀三郎に思いを寄せていた。銀三郎の書く書はお陽の心を深く揺さぶる。特に銀三郎の描く絵は、その対象の外見だけでなく、内面までも映し出していた。

ある日、お陽の言葉が蓮斎の耳に届き、彼は銀三郎のもとを訪れた。蓮斎は銀三郎の絵を見るや、謙虚な態度で「三宮様、私は三藤の剣客としてあなたを迎えとうございます」と、薄汚れた路地の前で膝と掌と額を地に擦り付けた。

まさにこの時、銀三郎と墨翰が重なり合ったのである。