見出し画像

三宮銀三郎 第二話「小岩の若き荒武者」

第二話:小岩の若き荒武者

江戸の小岩地区、安政の初期。小さな墨翰場は、興奮のるつぼと化していた。客は百名足らずではあるが、銀三郎という名の墨翰術師の登場を待ちわびていた。

本日の大一番には、松前の色男、銀三郎が出場である。彼は名声を勝ち取り、その筆で観客たちの心を魅了してきた。

対する相手は、阿蘇の蜘蛛、伊藤佐吉という名の墨翰術師である。彼の筆は繊細で幾何学的な模様を得意とし、球種の逆唱のような独自の技法で知られている。

墨翰の試合は、客ありきである。客は場に入るとき、入場料を支払い木札を一枚受け取る。木札には各々番号が振られている。

試合ごとに木札の番号が抽選によって選ばれ、四人の客が集められる。一人は「出題役」と呼ばれ、その試合の「お題」を出す役目を担う。残りの三人は「見届役」、いわゆる審判となる。

試合の開始を告げる呼び出しの声が響くと、二人の墨翰術師が舞台に立つ。それぞれが径が一寸ほどの大きな筆を手にしている。柄の長さは異なるが、床に置かれた紙に描くためには三尺から五尺が一般的だ。

紙は「三割畳」と呼ばれるちょうど一畳の三分の一の大きさで、平らな床に敷かれる。勝敗は壁に張り出されて判断される。床に置かれたままではなく、俯瞰して判断されるわけではない。判断を受けるときの視線すらも考慮に入れなければならない。そんな技術も求められる。

試合前の儀式とも言える木札の番号が抽選によって選ばれる。客たちは自分の持つ木札を見つめ、ほとんどの者が落胆のため息をつく。

そして、四番目の番号が呼ばれ、一人の若い町人が杭札を掲げて舞台袖まで客をかき分けて躍り出る。

呼び出しの声が舞台に響き渡ると、喧騒は一気に静まりかえる。

「東方、松前の色男、三宮銀三郎!」ついに銀三郎が呼び出された。観客たちは大いに沸き立った。

「西方、阿蘇の蜘蛛、伊藤佐吉!」客たちは伊藤にも惜しみない拍手を送った。

二枚の三割畳が広げられ、呼び出しは「出題役」に尋ねる。「さて、お題は?」

出題役は待ってましたとばかりに食い気味に叫んだ。「富士だ!富士!お山の富士だ!」

「お題は富士」と一声発すると、呼び出しは舞台を降りた。



銀三郎は墨桶に筆を浸け、大きく息を吸い込んで目をつむった。江戸に足を踏み入れたときの、初めて見た富士山の感動を思い出す。息を吐き出し、目を開けると、筆に剣の魂を込めて一気に描き始めた。

一方、伊藤は対照的に緻密で細かい動きで、神の周りをからくり人形のように舞い踊る。

銀三郎の筆は大きく弧を描きながら、力強く紙の上を滑る。

二人ともほぼ同時に筆を手から離した。それは書き上がりを意味する。

舞台の両端に立った二人を囲むように客たちの拍手が沸き起こる。床がはねあがり、それが客たちに披露される。二枚の紙には、それぞれ美しく描かれた富士山の絵が浮かび上がっている。

呼び出しが舞台に立ち、「見届役、役目を果たされよ」と告げる。見届役の三人が舞台に上がり、正面から二人の作品をじっくりと見つめる。

「見届役よ、さぁ、勝者の手を取られよ」

一人の見届け役が銀三郎の手を取った。続いてもう一人も手を取り、勝敗が決まった。

「三宮銀三郎!」呼び出しの声が勝ち名乗りを上げる。観客の賞賛はそのやむことを知らないようだ。

与えられる報酬は賞金制ではない。試合前に決められた金額が支払われるのだ。それは実績と名声に応じて定められる。

興行主が銀三郎に金子を渡しながら言った。「銀さん、もはやうちではあなたを抱えられない。もっと大きな墨翰場に出るべきだ。あなたはもっと大きな舞台でその筆を振るうべきだ。」

「わかりました。次なる場所に戦いを挑むために参ります。今までありがとう」と銀三郎は答えた。

彼は金子の半分を興行主に渡し、小岩の墨翰場を後にしたのだった。

銀三郎の新たなる旅が始まるのだ。彼の名声は広がり、墨翰術の興隆と幕末の風が混ざり合い、物語は次の章へと続いていく。