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三宮銀三郎 第十三話:銀三郎、立ち止まる

第十三話:銀三郎、立ち止まる

嘉永三年夏の神田天翔墨翰場。客席は興奮と期待に包まれ、注目の的は二人の墨翰術師、九条龍馬と三宮銀三郎に集まっていた。

「東方、松前の色男、三宮銀三郎」と銘打った声が響き渡り、客席は一気に沸き立つ。銀三郎が舞台に姿を現すと、その存在感に誰もが圧倒された。

「西方、信濃の剛剣、九条龍馬」と続いて呼ばれる。龍馬もまた武士の風格を纏い、その威容は七尺にも及んでいる。

墨翰術師には藍墨や緑墨を使う者もいるが、墨翰は短期勝負のため、複雑な配色は不向きである。しかし、技巧には限りがなく、九条もまたその一人である。

それに対して、銀三郎は黒墨にこだわりを持っている。彼は彩りを飾りとしてあまり興味を示さない。

しかし、客たちは貪欲であり、新色の墨に興味を持つ者もいる。墨翰場では商いも行われ、新色の墨を持ち込む者もいる。墨翰術師たちは新色の墨に一等最初に触れ、作品に取り入れることがある。

この日のお題は変わっていた。「藍墨を使っていただきたい」と出題役が言った。その言葉は金言として受け止められ、彼は舞台を降りた。

九条にとって、それは好都合なことであった。彼は七尺の体と六尺の筆で、墨被りまでもが藍色に染まっていく。

一方、銀三郎は細かい作業に没頭しているように見えた。いつもの豪快さに反して、今日は実に緻密な動きを見せている。



二人が筆を置き、書き上がりとなった。床が跳ね上がり、客たちは息を呑んだ。

九条は荒々しく波立つ海を描いた。その力強い筆使いで、蒼海の激浪を表現した作品には勇壮さと風格が溢れている。

銀三郎は立ち枯れた松の木を描いた。「憂いの松」と名付けられたその書には、寂寥感や哀愁が表現され、深い感動が込められていた。

一人の見届け役が九条の手を取った瞬間、客たちは気付いた。「銀三郎が負ける・・・」彼の常勝はついに終止符を打つのか。客たちは胸の鼓動が一時止まり、血潮がざわめき、鳥肌が立った。

残る見届け役は躊躇したが、一人が勇気を振り絞り、九条の手を取った。「く、九条龍馬」と青い顔をした呼び出しが勝ち名乗りを上げる。

九条は地響きのような咆哮を放ち、大きな体を舞台の上で躍らせた。

神田天翔は、その時、九条の存在以外何もなく見え、彩りも感じられることはなかった。

銀三郎は何を思ったのだろうか。彼の立ち姿や顔からは、その心情を窺うことはできなかった。