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三宮銀三郎 第十二話:天武の才と這い上がり

第十二話:天武の才と這い上がり

時は嘉永三年の如月、舞台は小岩の小さな墨翰場。そこには伊藤佐吉という墨翰術師がいた。彼は「阿蘇の蜘蛛」と呼ばれ、かつては影の薄い存在であったが、最近になって頭角を現し始めていた。

伊藤佐吉の筆は繊細かつ幾何学的な模様を得意とし、球種の逆唱のような独自の技法で評判を集めていた。特に彼の得意とする模様は「蜂の巣」と呼ばれる六角形を敷き詰めたものである。伊藤はその技巧を駆使し、正確に蜂の巣の模様を筆一本で描き上げることができた。

彼の技術は優れていたものの、お題に対して感動を生み出すことには苦労していた。

かつて銀三郎がまだ無名の頃、何度か対戦を重ねたが、彼は一度も勝利することができなかった。伊藤は一流の墨翰術師の書を研究するために、三大墨翰場に通い、彼らの書を買い集めていた。

しかし、伊藤には金の余裕はなく、借金を重ねていた。それでも彼は墨翰術師としての成功を目指し、一流の書を集め続けた。特に銀三郎には強いこだわりを持ち、彼が三藤に所属する前の書はほぼ伊藤の手元にあった。

銀三郎が出番の際は必ず神田天翔に出向き、墨がぶりと呼ばれる最前席に陣取った。伊藤は自らを追い詰める覚悟であり、後戻りのできない道を進んでいた。

ある時、伊藤の書が突然大きな評判を得るようになった。何がその変化をもたらしたのか、伊藤自身もよくわかっていなかったが、「ならば」と彼はその勢いに乗り、自らを鼓舞し続けた。



そして、彼には贔屓が現れるようになった。伊藤の贔屓は「蜘蛛の糸」と呼ばれ、彼の試合には必ず墨翰場に現れた。彼らは蜂の巣模様の手拭いを持ち、「佐吉!佐吉!」と場違いでも声援を送った。その熱狂ぶりは他の客に鼻白まれるほどであった。

伊藤はついに浅草鳳凰場への出場を果たすことになった。銀三郎に遅れること一年足らずにして同じ土俵に上がることができる喜びを感じたのだ。

だが、勝ち続けても返せぬほどの借財に、伊藤の命脈は断ち切られていたのである。そのことはその時誰にも知り得なかった。