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三宮銀三郎 第六話:ひょっとこ(後)

第六話:ひょっとこ(後)

時は嘉永二年の桜咲く頃。舞台は神田天翔場。

三宮銀三郎(松前の色男)は、「江戸の火事」のお題に筆を舞わせている。

対する高橋庄太郎(堺の火男)は、朱墨を取り込み、鮮やかな炎を描き出していた。

高橋は時折、大胆に筆を振るう。その度に観客や銀三郎、果ては敏三郎の二畳敷の紙までも、朱の墨が飛び散る。銀三郎の紙は点々と汚れていく。

しかし、銀三郎はそれに動じる様子はない。自身が剣を振るえば、相手の剣を受け止めることができない。肉を切らせて骨を断つ。つまり、剣術の使い手として、敵の剣撃を自ら体で受け止めることも理解しているのである。

高橋がついに筆を置いた。高橋は銀三郎に対し、「とろい馬は、屠られませせ。」と言い放った。

しばらくして銀三郎も筆を置いた。双方が書き上げの意思を示したのである。

二畳敷を一度に掲げることはできないため、まずは高橋の作品が観客に示された。

それには朱墨の力が存分に発揮されていた。江戸の街が紅蓮の炎に包まれ、家屋や人々の命が容赦なく焼き尽くされていく様子は、まるで紅の龍が江戸を蹂躙しているかのように見えた。

見届け役たちはその恐ろしさに声を上げてしまう。客の中には体が震え、嘔吐する者さえ現れた。

「我慢できん奴は、顔を背ければええ。けど、こんな絵には一生目にすることはできまへんで」と高橋は笑いながら客たちを挑発した。

次に銀三郎の作品が示された。

画面の中央には若い娘が半鐘を鳴らす様子が描かれている。いわゆる「八百屋お七」の図である。客も見届け役も声を出すことができなかった。銀三郎の絵を見る前に高橋が口を開いた。「せやろ。そんなつまらん絵に何も言うことはないわな」

しかし、その銀三郎の絵を見た高橋も、声を出すことができなくなった。

その絵には、お七の姿が描かれており、江戸に火を放った彼女の情熱が全て表現されていた。それはただ恋に焦がれる少女というだけではなく、男を知らぬ体が肉欲に溺れる様子までをも描かれていた。

高橋が放った朱墨は、江戸の街を焼き尽くす炎の火の粉や、お七が流す血の涙として作品を彩っていた。

人々の心に宿る炎。お七はその心の炎に身を焼かれ、燃え尽きて灰となるようにさえ見えた。

高橋は「見届けんでもええ。我が負けや」と言い、自らの作品を破り、舞台を降りた。

観客たちは高橋に気を取られることもなく、銀三郎の作品から目を離すことができなかった。