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沖縄空手の古層を掘ると現れた人物|Studies

本土に空手が普及する以前の近世から明治期にかけて、空手(手=ティー、唐手=トゥディー等の呼称あり)を実践していた人物にはどんな人がいるのでしょうか?(上の写真はイメージです)

新垣清著『沖縄空手道の歴史――琉球王国時代の武の検証』(2011年 原書房)を参照して、空手の先人たちを抜き出します。このリストは、本部朝基『私の唐手術』と、安里安恒談・松禱(船越義珍)筆「琉球の武技」に基づいて抽出されています。

このうち佐久川寛賀と松村宗棍と喜屋武朝扶に関しては押しも押されもせぬ空手の先人であり、先行研究があるので家譜調査の対象外としています。

家譜及び関連資料(主に『那覇市史』)等から個人情報を集めることができたのは、宜野湾殿内、石嶺真智、徳嶺親雲上盛普、義村朝義です。

このほか新垣本では出典不明ながら、真栄里親雲上蘭芳、蔡肇功、山田義恵・義輝についても家譜情報が得られました。

ただし残念ながら、これらの人物が空手を実践していたことを判断できる箇所はありませんでした。

このうち宜野湾殿内、蔡肇功、山田義恵は比較的詳しい記載があったので、その一部を紹介します(翻訳したのは私ではありません)。家譜が残るわけなので当然といえば当然ですが、いずれも王府の官人層(上級士族など)です。

宜野湾殿内[宜野湾親方朝昆]

宜野湾間切の地頭職で、尚育王時代には三司官に任命されます。唐名は向廷楷。息子の朝保は琉球の五偉人の一人とされています。

下記は清に出張したことを示す記録であり、中国武術に触れるきっかけがあったことが推測されます。これは他の多くの官人層とも共通する経歴です。

1824年(道光4年)2月1日、進貢の事のため、二号船大通事となり、耳目官・向廷楷盛島親雲上、正議大夫・梁光地当間親雲上らとともに、9月11日那覇開船、馬歯山で風待ちをし、21日出船、25日五虎門に入り、10月3日閩駅(琉球館?)に到着。翌年5月1日に公務を全うし、琉球館を離れて船に乗る。11日五虎門出て22日馬歯山に着、湾内に泊まり、23日帰国して復命した。

『那覇市史 資料編 家譜資料』久米系上p270を意訳

蔡肇功

「さいちょうこう」と読みます。湖城親方という役職名で、のちの湖城流に連なると考える人もいます。1656年に久米村で出生し、1737年没と比較的長生きをした役人です。渡唐役人を歴任し、『歴代宝案』の督抄官も務めました。

下記は1704年(康熙43年)の中国渡航の記録ですが、引用した「毛姓家譜(豊世嶺家)」以外の様々な家系の家譜でこのことに言及されています。帰路の暴風のくだりでは、土佐に漂着し薩摩を経由して帰国したという異説もあります(「毛姓家譜(奥間家)」)。

2月1日、進貢の事のため、耳目官・温氏森山親雲上紹長と正議大夫・蔡肇功牧志親雲上が中国に赴く際、(十世安周が)小唐船の才府となり、10月10日贐として国王から焼酎一壺・鰹三連を賜った。11月24日那覇を開船し馬歯山に至り、27日開洋、久米島にて風を待ち29日開洋、洋上半ばで波風が酷く進路通りに進めず、12月4日、唐山の海壇観音湾に漂着し、この地が無風のため(船を出せず)滞船、翌年3月22日閩に到着し、公事を全うして、6月24日五虎門を開船、洋上で風雨に遭い、7月2日琉球の国頭奥泊に漂着し、6日奥泊を開船、7日那覇津に到着した。

『那覇市史 資料編 家譜資料』首里系p792を意訳

山田義恵

容姓山田家に属し、父は十一世の義方で、その三男として1835年に生まれました。泊手の流れと理解されています。

下記は冊封儀礼に際して舞踊を披露して表彰された旨の内容です。空手の公式演武場としても利用されたと伝わる「御茶屋御殿」が文中に登場しています。舞踊と当時の「手」との連関性はよく指摘されるところです。

同治4(1865)年6月6日、来年冊封の大典があることから躍りとして手を行うよう命ぜられ、翌年6月冊封使が琉球に来た際には、宴があるごとに躍りを勤めたことによって、正使・副使のお褒めにあずかり、扇子一本・自筆(の書か画?)を二枚・色々の筆三本・墨一丁・香珠一貫・糸手拭一筋を賜った。同6(1867)年3月16日には、御意によって御茶屋御殿で躍りを行い、上覧され、国王のお褒めにあずかり、扇子二本・鼻紙袋一個を賜った。

『那覇市史 資料編 家譜資料』那覇・泊系p732を意訳

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