間を生きる歪な人間〜生きづらさに名前を付ける〜

今日は、NHKの番組に次々とインスパイアされる日であった。

まず、とりわけ、ドキュメント20min「ラスト・イニング 宮崎 vs.沖縄」。

80歳を目前に、10代の頃から引きずってきた葛藤と向き合うため、沖縄と広島へ向かった三浦さん。個人的には 10代の若者に容赦ない言葉を投げつけた当時の世間や新聞に憤ったけど、それらを超えて、彼が言いたかった言葉…

人間は…時になんて繊細な生きものなんだろう。
旅支度をする三浦さんの姿に心を打たれた。

傷や挫折というものは、それが子どもの頃のものだろうと、青年期だろうと、うまく癒せなければ、一生引き摺るものではないだろうか。

自分は10代の頃の挫折をいまだに引き摺っていて、それを恥ずかしく思っていたが、彼の姿を見て、一生かけてリハビリしていくのも、ありだと思えてきた。
そういう人生もありかなと。

挫折の内容についてはまた別のタイミングで書こうと思うが、その原因を一言で表すとすれば、標題の通り、
「歪な人間であること」な気がしている。
歪な、とは、昔齧った剣道の言葉で表すならば、
心、技、体が一致していないことである。
想いばかりが先走り、技能と実行力に欠けていることが、自分を中途半端な人間にしてきたと感じている。
ハードルを越えられず、憧れの向こうに行けない、間(はざま)の人間。

ただ、言い訳めいているが、根性論で済ます気はない。心や頭や体には、一人ひとり違った性質、条件があるわけで、それがつまり生きづらさと言えるだろう。
自分に絶望して死にたくなるより、そんなふうに逃げ道があったほうが良い。

なので、まずは自分の感じてきた生きづらさに名前を付け、向き合う作業をこのnote全体でしていくつもりだ。

その詳細は置いといて…もうひとつ。

「おはよう日本」で、草刈民代さんのインタビューを観たのだが、個人的にはこの心技体を整える作業を言語化してもらった気がする。

草刈さんは、バレエを通じてウクライナを支援する企画を実施していらっしゃるのだが、それについてのコメントに感銘を受けた。
どの言葉も記録したいぐらい素晴らしかったのだが、ここでは上記の件にしぼると、次の言葉が身に沁みた。
「今まではどれだけ踊れるかしか考えていなかったが、実はそれを通してどう生きてきたかが問われる」
「自分が納得できるように小さいことでもやっていければ、その先に見えること、つかめることが違ってくるので、そのときにやるべきだと思ったことはきちんと形にして、何を感じるかを実感して生きていきたいと思います。」

心で感じ、頭で考えたことについて、体を動かして、形にする、そこで感じたことを心に戻す。
胸に刻んでリハビリ作業をやっていきたい。

最後に、「虹クロ」(性のあり方に悩む10代とさまざまな分野で活躍するLGBTQ+のメンターが自らの体験を語る本音トーク番組)。

番組の主旨からは離れてしまうかもしれないが、自分の文脈に響いたのは、ロバートキャンベルさんの言葉。
「自分を知らない、自分が否定されるかもしれない人たちといるのも必要」
今考えているリハビリ作業は、おそらくそんな人たちとも接しなければならない。それについて、一歩踏み出す勇気になりそうだ。

NHK先生サマサマである。なんか、育休中は特に、子育ても含めて、NHKにすごく助けられてる。ほんとありがたい。あれ、NHK賛辞みたいな記事になっちゃった。

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