見出し画像

私のライフラインチャート


初めまして!おじさんLCCの中のオジサネーゼからやってきました
「すなちゃん」です。
歳は58歳。
2025年2月1日付で定年を迎えるサラリーマン。
転職経験なし、新卒入社の会社に勤めて35年。
家族は二世帯で私の母、私の夫、境界知能の娘、三代目の猫です。


娘が5歳の時から18年6ケ月一緒だった二代目るる
三代目のミミ様

7月の銀座百年大学で美冬さん、HIROさんのセミナーがあり、そこで初めてライフラインチャートを記入しました。今日はこのチャートで自分の人生のやキャリアの振り返りを綴ります。
※ライフラインチャート 自分のこれまでの人生を振り返り、いつどんな出来事があったのかと、その時の自分の幸福度など気持ちをチャートで表したもの。

私が書いたライフラインチャートです。
今日はこのチャートから私の人生の前半部分についてお話しします。

1. 私の58年の人生のうち、最高潮は19歳


生まれは北海道札幌市
最初の挫折は高一の終わりに父が東京に転勤。都立高校の編入試験を受けたところ不合格。母と二人札幌に残りました。
二番目の挫折は大学受験。
チャートを見るとどん底ですね。
母と札幌を出て父のいる東京に行くために東京の短大をまずは3校受験。
やりたいことはぼんやりと決まっていない状態。
父の「女は短大まで。就職して夫を見つけ、専業主婦の道が一番」と言われて、父のおすすめする学校を受け、全部不合格。今更就職も進学もできない、どこにも所属していない私の気持ちはどん底でした。
お金を出してもらい予備校に通い、何とか父の反対を押し切って、受験校の中で一番行きたかった四年制大学に合格。大学名の知名度はそこそこ高かったため、父もしぶしぶ認めてくれましたが奨学金を取る事が前提でした。

2.急降下は就職活動


さてライフラインシートで19歳で人生のピークを迎えた私。
その後、チャートは23歳で降下します。そう、就職活動です。
私は1987年に大学四年生。まだバブルの前。男女雇用機会均等法の二期で優秀な女性、もしくは何らかのコネがないと就職が厳しい時代です。
何とか内定をとれたのは2社
SEと美容部員です。SEは自信がなくて内定辞退。
 美容部員を保険として、教職を取っていたこともあり、都立の農業高校の教員試験を受けました。結果は。。。×
 
保険で取っておいた、美容部員で新卒入社することになりました。

※写真はイメージです

今でこそ、短大・四大卒の美容部員は多くいらっしゃいますが、私の時代はそもそも20歳過ぎて初めて美容部員という女性はほとんどいない時代(ほぼどのメーカーの美容部員も高校卒)。
18歳と23歳と5歳の開きがあっても同じ扱いで取引先や他メーカーからは「新美(しんび)ちゃん(新人美容部員)」と呼ばれます。他メーカーの先輩、同期たちと仕事終わりに飲みに行ったり、店休日にはスキーに行ったり。
皆さん、休憩時間に喫煙するので話に混ざりたくて煙草も覚えました。
その楽しさは1年で終わり、2年目からは美容部員を派遣しない、取扱店舗にセミナーをしたり、入店して化粧品担当者様(取引先)にOJTを行う、「インストラクター」になりました。この業務へのかかわりは40代後半まで続きます。

3.ライフイベントに突入する28歳~40歳代

女性の就業と聞くとM字型カーブがあります。年齢階級別の労働力率が、子育て期に低下し、アルファベットのM字の形状に似た曲線を描くとというものです。

今でこそ、結婚・出産では仕事を辞めず、続ける方が圧倒的ですが、まだまだ結婚で一度退職、もしくは出産を機に一度退職、その後また就労というケースが一般的でした。

私の大学自体の友人たちはほぼ全員結婚後もしくは出産前に退職し一度家庭に入っています。私の場合はたまたま。。。
・28歳で結婚(特に家に入れとは言われなかった)
・31歳で出産(自分の親との二世帯住宅を建てたのでローンの為継続)
で就業を続けていました。
「私も男性と同じようにバリバリ働きたい!」「自分のキャリアをひろげたい!」など全く考えたこともなく、ただその場の状況に合わせて勤め続けたのが本音です。
そんな何となくの働き方の中で、娘が3歳の時に発達の遅れを健診で指摘され、言葉の教室などにも通います。小学校入学後は常に担任の先生から「娘さんがいうことを聞かない」「勉強ができない」などの呼び出しや夜電話がかかってきて、私が謝罪するなどの日々が続き、チャートでも下降しているのがわかります。
娘のことを当時は相談する場所もなく、クラスのお母さん方には「お仕事していて偉いわねー」等々言われ、数少ない働くお母さんのママ友もお子さんには問題がないため、私のこころは疲弊していました。

家庭では疲弊していましたが、仕事にいけば仕事に集中して辛いことを一時忘れることができたからでしょうか、会社での立場は割と早くにマネジャーや40歳で専門職の部長に上がっていきます。
専門職の部長になって数年、会社の再編があり、またマネジャーに戻り、微妙な気持ちになっていたところ、46歳の時、中2の娘が不登校になります。
さすがにこの時は仕事を辞めて、娘の問題に一緒に向き合おうと思いました。いくつかの不登校専門のカウンセラー等を回ったところ、どこでも以下のワードを言われました。
・お母さんは仕事を辞めない方がよい
・仕事を辞めると、「娘のせいで辞めた」「自分は続けたかった」等の感情
 が出てくる可能性がある。
・退職するにしても今すぐ決めない方がよい。
少し悩みましたが「退職はいつでもできる」と考え直し、退職については一時保留にしておきました。
この後、娘の問題がきっかけで家族全体の問題がわかり、私の人生と会社でのキャリアも大きく変わっていきます。
続きは次回に!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?