大阪の「ヒガシ」の歴史をさぐる④
皆様、こんにちは。
本のイベントレポ等々で長く間が開きました。
あと、3~4回(割とあるな)お付き合いいただけると幸いです。
それでは、早速参りましょう。
大坂城惣構東南部の姿
1.豊臣期大坂城の南東部一体の景観
城郭と城下町が惣構と呼ばれる城壁で囲われていた。
惣構は北が大川(現・淀川)、東は猫間川、西が東横堀川、南が空堀までとなる。
惣構内には町人地と武家屋敷が広がっていたが、豊臣期の惣構の内部については判明していない。
今、知られているのは江戸時代の絵図であり、江戸時代の町割が描かれたものである。
ただ、惣構南東部には豊臣期大名の屋敷の存在を匂わせる地名が複数存在。
例えば、越中町は細川越中守忠興。安国寺町は安国寺恵瓊。龍造寺町は龍造寺隆信。半入町は前波勝秀(半入)がある。
他にも、宇喜多秀家屋敷は玉造細川邸の隣。前田利家は玉造の屋敷で死去、息子利長の屋敷も隣。
小出吉秀邸も玉造であり、浅野長政邸も玉造とされている。
また、玉造稲荷の南、将監山は富田左近将監知信、佐久間将監、伊藤将監や明石守重などからでは?と指摘され、八尾町には曽呂利新左衛門屋敷と言われている。
森ノ宮・玉造一帯の景観は江戸時代に大きく改変された。
町人地は直線の道路に面した長方形の両側町だが、この一帯は方格の地割が優先された。
上町台地の東斜面にあり、台地頂部から直線で繋がらない。
江戸時代以降に町人地が広がるのは、元和元年(1615)から元和5年(1619)に松平忠明により進められた市街地再開発によると想定される。
さらに、元和6年(1620)から寛永6年(1629)に行われた大坂城再建工事の第3期工事による大坂城南外堀の掘削工事によって掘りあげられた土砂の埋立て盛土事業によって地形が大きく改変。
これにより、中央大通り東部の地下にあった豊臣期武家屋敷が埋没、大阪城公園東部で見つかった石垣も地下に埋もれる。
2.大坂城南東部に広がる遺構群
大阪城公園
昭和54年(1979)の大阪城野外音楽堂建設時の、難波宮跡153 次調査で南北方向の石垣が埋没していることが判明。
162次調査で石垣が南北30m以上になると確認。石材は自然石を使用し、西側の大坂城側が高く、東に堀が広がる。
昭和63年(1988)には平和資料館建設に先立つ調査で堀と石垣を発見。標高12.5mから深さ10m以上あり、大阪城南東部での発掘調査では現在とは大きく異なる地形だったことが明らかになる。
難波宮跡史公園の東方にある森の宮入路交差点付近を境に東が急激に低くなる。
西側は難波宮跡が広がる平坦面で、東側はJR森ノ宮駅へと続く下り坂になっているが、昭和46年(1971)から行われた阪神高速森の宮出入り口の入出路建設に先立つ調査から徐々に判明。
森の宮入路交差点より東部では豊臣期の遺構面が10mも低くなっている。
難波宮跡71次調査
昭和50年(1975)に森の宮入路交差点東のマンション敷地で調査。中世の大溝は北で西に振る方向で、豊臣期以降の遺構群とは方位が異なる。敷地東部では難波宮跡あるいは難波宮下層遺跡になる掘立柱建物が見つかる。
難波宮跡が広がる高台と東の低地部をつなぐ石段通路跡と推定される遺構も見つかる。
阪神高速道路東大阪線関連調査
大坂夏の陣で焼亡した建物や71次調査地で見つかっている堀につながっていると推定できる堀などが見つかる。
森の宮遺跡
森ノ宮ピロティホール敷地では中世から近世にかけての溝を検出。
溝の方位が変化している。中世の溝は北で西に振り、近世の溝は北で東に振る。
森ノ宮ピロティホールから西一帯に集落域が形成されていることから、中世の森村はこの付近の可能性がある。
上町台地の東裾に立地。東には猫間川や水団が広がる景観。
大阪中央労働総合庁舎と東にある鵲森之宮神社の辺りに水田や流路が広がる空間があった。
3.大坂城惣構と真田丸
南の惣構として空堀が築かれる。
東部は自然の谷地形を利用しているため、横矢掛かりなどが不十分。そのため、防御強化のために大坂冬の陣に際し、真田出丸が築かれる。
場所は現在の明星学園敷地を中心とした一帯と推定され、真田丸を描いた絵図は、破却された地形から推定して江戸時代の18世紀に描かれている。
本日のまとめ
今回は織豊期から江戸時代の玉造、森ノ宮周辺について発掘調査のことも含めて紹介しました。
もっと各項目詳しくは、これから更に資料を読んで書いていく予定です。
ひとまず、大阪城や森ノ宮近辺ってこんなの発見されてたのか、などざっくりと知っていただければ幸いです。
次は江戸時代の大阪のヒガシをご紹介予定です。
今回も見ていただきありがとうございます。
次回もどうかよろしくお願いいたします。
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