大阪の「ヒガシ」の歴史をさぐる⑤

皆さん、こんばんは!

早速5回目に入りましょう。


1.徳川大坂城の築城と武家地

①豊臣大坂城三ノ丸その後

慶長20年(1615)大坂の陣後、城下の復興のため三ノ丸が開放される。
元和5年(1619)9月、「算用場」の近隣で屋敷割りが行われる。
✱玉造地域では町割り、屋敷割りが実施

②徳川大坂城築城を支える地

加賀前田家の石置場
安井家が大坂復興の責任者松平下総守忠明より玉造・塩硝場43,000余坪を与えられ、元和6年(1620)の大坂城普請時に前田利常より「加州之石」を置くよう依頼をされる
大坂城築城後、慶安5年(1652)(推定)における石の所在地と数
玉造、森宮近辺川端:平石4,583
鴫野嶋、玉造、森宮近辺:角石35
字名「石置場」(明治19年(1886))→江戸時代を通じて石が保管されていた
玉造稲荷神社内の刻印石(毛利家)

③町人地から武家地へ

元和5年(1619)の伏見城廃城にともない町人の大坂移住・町人地整備→伏見組構成町の一部が大坂城の東側に展開
承応3年(1654)玉造口定番与力同心屋敷拡張のため、多くが収公され翌年堀江地区へ移転
「森村北之堀端」と「玉造算用曲輪東南之下」も同時に収公、与力同心屋敷が面的に拡大・確立

④玉造口外側の算用場(曲輪)

算用場の土塁は高めだったことが、元和6年(1620)3月3日付「藤堂高虎書状」などに見える

2.猫間川の川浚えと行楽地化

①猫間川とは

豊臣期は大坂城の東惣構と位置づけられ、水源は桃ケ池(現阿倍野区)とその近辺の河内国八上郡の溜池用水の余り水。
江戸時代は宝永元年(1704)の大和川付け替えまで、玉造平野口町より平野川との合流地点との間は川幅が広く、常に水を湛えていた。
猫間川は昭和32年(1957)までに埋められ消滅。

②天保期の川浚え実施と入江開削

前史と目的
前史→宝永元年(1704)大和川付け替えにより平野川の水量減少。河内国八上郡の溜池用水の余り水も新大和川へ落ち、猫間川は常水無きようになった。
天明年間(1781~89)玉造伊勢町の平野屋利兵衛が私費を投じて浚渫。その後は続かず。
目的→玉造の通船を自由にし、土地の永続を実現。そのために、猫間川を玉造へ掘り抜き、道頓堀へ船の往来ができるようになれば繁昌できる。
内実は御城要害のため外堀の構えとするねらい→前年に大塩の乱
天保期の動き
天保8年(1838)11月→公儀負担で玉造二軒茶屋から下流838間、幅5間の浚渫、翌春に完成。
更に玉造からの下水道を幅5間に広げ、水流を集めて大和橋上流で猫間川に流し入れる長さ313間の猫間川入江を開削。このとき清水町の由来の玉造清水が入江に取り込まれ消える
天保9年(1839)5月→川浚えに町内から砂持加勢。所々に橋をかけ、両岸に桜などを植え、砂持の場所にはおもしろき山が造られた。玉造稲荷は大いに賑わい、社内から北へ道を開き、茶店等がこしらえられ大繁盛。
資金は玉造住人で国学者、歌人の佐々椿夫の呼び掛けで住民たちの寄付も充てられた。
川浚えにともない玉造郷中に猫間船31艘の営業が許可され、運上銀も免除された。
なお、入江は大正年間までに漸次埋め立て。

竣工を記念する碑
    天保9年(1838)2月建立の句碑(鵲森宮境内)
         千歳の徳澤猫間の川に絶せぬを仰ぎて
       天地の恵みをしるや華の時        虎丸
                           天保戊戌(9年)仲春   道島氏建之
    天保10年(1839)1月建立の記念碑(稲荷神社境内)川浚え完了を記念。発起人は佐々木春夫。石碑は灯台の元祖

③川浚え後の光景

『猫間川堀浚絵図』
浚った土砂により誕生した堤は20町余、桜・楓が数千本植えられた。そして玉造稲荷社から森之宮社まで一面のさくらのさかり日々の賑わひも万代の繁昌の基いとなるべし。
「花圃」
猫間川西岸のもと流作地。花の市や供花用として栽培。
「姥(うば、ばば)が柳」
「時々あやしきことありて人をなやますとぞ、故ニ近頃より毎年三月十六日猫間祭とて祈祷をなすより基事やみしといふ」

④寺社の賑わい

鵲森宮→文化元年(1804)2月森之宮で鶴が巣ごもり。用明天皇の建立にして「元天王寺旧地」。
亀井水:社の東、田のなかにあり。
入湯浴屋:亀井水を汲んで湯とし、諸人を入湯させる。長らく絶えていたものを宝暦年中に再興。
蓮如上人祈松:本願寺第八代蓮如が文明年間(1469~87)に詣で、松下に座して祈願。
上宮堂:文政9年(1826)建立。伝聖徳太子自作像。伝蓮如自作像を安置。
朝日庵→森の宮の南にあり。猫間川浚え時に浪華十二薬師第一番だった薬師堂を移し、仏殿を造営して成立。本尊は加藤清正像。
稲荷神社(豊津稲荷神社)→寛政元年(1787)5月下旬より砂持。
梅薬師堂→稲荷神社の北側に隣接。17世紀頃に紅梅の大樹多く植えられる。
地蔵堂→稲荷神社の高殿の下にあり。堂のまわりは丘山で、猫間川浚えの土砂を盛った場所。

⑤杉山

杉の大樹が生い繁っていたゆえに杉山。春暖の頃はここで遊宴したという。

本日のまとめ

江戸時代になってから変化した大坂城周辺や東に流れていた猫間川を紹介しました。
猫間川は昭和には消えてしまいましたが、長く存在した川です。
また、今もコンサートや演劇などで森ノ宮ピロティホールへと足を運ぶ人々が集う地域から少し南に行くと江戸時代の人々も花見などを楽しんでいた行楽地だったことがわかります。
実際に絵図ではどうだったのか?
それはネットや書籍で直接確かめて見ると面白い光景だと思います。

今回もお付き合いいただきありがとうございます。
次回もどうかよろしくお願いいたします。

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは史料収集など活動として還元いたします。