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職人歌合から見る職人像の移り変わり②

皆さん、こんにちは。
今日は何と2個目、いや、夜中の入れたら3個目の投稿になりますね。
いやはや、人間ネタストックしてたらやればできる!のかもしれない。
では、早速前回からの続きを書いていきます!


職人歌合の前期、後期

職人歌合は『東北院歌合』の五番本、十二番本、『鶴岡放生会歌合』の3種が14世紀以前の絵巻物になります。
『三十二番歌合』『七十一番歌合』が15世紀後半につくられた絵巻となります。
そのため、前3種を前期、後2種を後期と便宜的にわけます。

前期は神仏にかかわる法会のさいに、「道々の者」が集まって歌合をする形をとっていました。
しかし、『三十二番歌合』は、勧進聖を判者としつつも神事・仏事には直接関係なく、多くの職人たちが自分たちで集まって歌合をやることになっている。
『七十一番歌合』は、「万の道の者」が集まってみなで判定するかたちで行われている。
この『三十二番歌合』と『七十一番歌合』は、鎌倉仏教の影響があらわれているようだ。

職人の職種については、時代を降るとともに増えている。『東北院歌合』五番本は判者を加えて十一種、十二番本は二十四種、『鶴岡放生会歌合』も判者を入れて二十五種。
『三十二番歌合』は判者を加えて三十三種、『七十一番歌合』にいたっては、百四十二種となっている。
ここに個人的感想を少し述べさせて貰うなら、最後急に増えすぎやろ!?

前期の『東北院歌合』では、博打と商人が職人として出てくるが、中世後期には出てこない。
博打については、何となく歴史的に何度も禁制が出ていたり、今でも法律で規制されているので、想像はつくだろう。
一方、商人は段々と意味合いが変化し、職業が分化したためと考えられる。昔のようにひと括りにまとめられなくなったということだ。

他にも変化として遊女も白拍子と番いで出ていたが、「たち君・づし君」と変化した。
このような変化は15世紀には社会的に賎しい身分とみられるようになった人々に多い。

では、なぜそのような変化がでてきたのか、14世紀以前は、神仏や天皇などの聖なるものの直属民とされていた。しかし、南北朝時代以降聖なるものの権威などが急速に低下。
その例として、西京神人は中世前期には北野天満宮の神人として認められ呼ばれていたが、中世後期には室町将軍が独占を許した麹売の呼称の方が広まった。
また、厩寄人と呼ばれていた人は馬借と世俗的な職能の方が呼称となっていった。
何度か登場した有徳人も社会から卑しめられる方向で疎外される傾向があらわれる。
そのように聖なるものに仕える人々がその権威が落ちた途端に俗っぽい扱いを受けるとは、昭和史に似通った部分があるのでは無いか?と人の成長の無さを穿った見方をしてしまう現象だ。

それはさておき、歌合では巫女の番いは博奕というか双六だったらしい。平安時代末期には、巫女別当と双六別当という役職があったようで、どちらも神意を占うなどの性質があったからだと考えられる。
そのため、博奕を禁制にしつつも博打を芸能と見て、職人として見る見方も根強くあったのだろう。

遊女の源流にしても下級官人のように宮廷にきわめて近かった。つまり、平安・鎌倉時代の女性は男性と同様に役職などがあったが、15世紀以降女性のあり方が変化したことが現在へと繋がっていっている。そのことについては、次回に語りたいと思う。

賤視されはじめた職人

猿楽師などを指すときに使われていた河原者も源流は下級役人などの地位でこの段階では差別はなかったようだ。だが、官庁の解体で仕事をする場に、河原を選ぶ必要があったために河原者となったのだろう。
なぜ河原を選ぶ必要があったのかと言えば、皮のなめしなどをする職人は、水が必要だったからだ。
非人は悲田院という役所と関係があったが、こちらも官庁の解体で職能集団となった。
どちらもケガレを清める役割をする人々であり、このケガレに対する考え方が賤視へと変化したことが差別の発生の背景と考えられている。

どちらにせよ、網野善彦先生存命の頃にはまだ明確な定説は定まっていなかったようなので、今後も榎並猿楽以外の歴史において最新の研究についてふれる必要がある時に詳しく調べたいと考えるが、ひとまずはこの辺りの認識まででとどめておきたい。

本日のまとめ

遊女や博打というと、江戸時代の時代劇などでは不幸に片足を突っ込んでいたり、可哀想な女性などと描かれることが多いが、それよりも昔になると今で言う公務員の端くれだった上に、芸能扱いなど風営法に引っ掛かるものが大嫌いな方からするとびっくりしたことだと思われる。
しかし、日本においていつの頃からか官庁を解体され、次第に卵が先か鶏が先か問題のようにケガレについての考え方が逆転してそれが差別を生む。
これは、いじめをうけた子に問題があったのでは?と発言をする発想と何が違うのだろうか。

ケガレそのものは、生き物の死など避けて通れないものだろうが、自分の代わりに清めてくれる存在がケガレを作る問題かのように意識をすり替えた結果が現代に続く問題となっていると想像される。

猿楽師の実像を掴む一部となればと学んでみたが、これ自体が現在にまで続く多くの問題を孕んだ文化の変遷を見せてくれるものだとわかるだろう。
しかし、私はあくまで榎並猿楽をはじめ、大阪市東部の歴史や文化を様々な角度から研究したいのであって、人権問題にまで発展する分野については既に先人たちが語っているので、網野善彦先生の『職人歌合』の中に書いている以上の深掘りは今のところ予定はしていない。

次回にその点を期待される方には申し訳ないが、あくまで職人歌合を通して見える歴史的な職業像の変化をご紹介するにとどめる。
今回はお付き合いいただきありがとうございました。
次回もお付き合いいただけると幸いです。

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