国語ができる人とできない人の違いについて(個人の感想)

完全に私個人の意見です。


私は国語が、というか現代文が苦手でした。
単純に文章を読むのが遅すぎて解き終わらない、というのもありますが、解答や解説を見てもあまり理解できないことが度々ありました。
なぜそれらが正しい答えになるのかは、いまだによくわかりません。

そんな私が国語の教科書や問題文を読んでいたときによく思っていたことは、
「だから何?」
「こいつ(筆者)の言っていることはおかしい」
「私はそうは思わない」
「何が言いたいの?」
「あんた(筆者)が勝手にそう思ってるだけだろ」
などでした。
実はこの考えが、国語ができる人とそうでない人の違いなんだと気付く出来事があったのです。

私の知り合いに、当時高校生の、国語(現代文)が得意な人がいました(世間一般的にどうなのかは知りませんが、少なくとも私から見れば国語ができる人でした)。

その人に、「よく現代文なんかできるね、現代文って難しくない?」と聞いてみたんです。

そうしたらその人は、
「別にいつも良い点が取れるわけじゃないよ。文章の筆者によって相性の良し悪しがあるし。文章によって、筆者はこういうことが言いたいんだろうな、ってのがわかるときとわからないときがあるんだよね。」
と言っていました。

私はそれを聞いて衝撃を受けました。
というのも、私は今まで、筆者は何が言いたいんだろう、と、筆者に寄り添う気持ちが一切無かったのです。

ここでもう一度、国語ができない私が文章を読む時の脳内を見てみましょう。

「だから何?」
「こいつ(筆者)の言っていることはおかしい」
「私はそうは思わない」
「何が言いたいの?」
「あんた(筆者)が勝手にそう思ってるだけだろ」

ご覧の通り、筆者の気持ちや考えに一切寄り添えていません。

じゃあ国語ができないやつは性格が悪くて、国語ができるやつは性格が良いって言いたいのか?
そうではありません。
これは単なる性格や気持ちの問題ではないのです。

私が考えた結論は、
国語の能力とは、”他人の主観”で物事を考える能力だ。
ということです。

自分の気持ちや考え(自分の主観)でもなく、
論理的、理論的な正しさ(客観的事実)でもなく、
筆者は何を考えているのか、という他人の主観なのです。


例えば私の場合、

「だから何?」
「私はそうは思わない」
「何が言いたいの?」
これらは”自分の主観”です。私からすると、この筆者の考えは受け入れられない。私からすると、筆者の話に興味が無い。もっと私にとってわかりやすい話し方をしろ。という考えです。

「こいつの言っていることはおかしい」
「あんたが勝手にそう思ってるだけだろ」
これらは”客観”です。筆者の意見や考えが実際に正しいのか?論理が破綻していないか?正しい根拠を言え!など、客観的な正しさを求めています。

しかし国語で求められる能力はそこではないのです。
自分がどう思うか、実際に正しいのかどうか、それらに関係無く、ただ相手がどう思っているかを考える、その能力が必要なのです。

一応もう一度言っておきますけど、別に性格の良し悪しの問題ではないですからね。
例えば、サイコパスみたいな人でも、他人の考えや気持ちが理解できる人はいるし、逆に人に優しくしたいと思っていても、他人の気持ちがわからない、ということもあります。
これは、他人の気持ちを察する能力の問題なのです。
そして恐らく、筆者だけでなく、問題作成者の意図を察する能力もここに含まれるのでしょう。

ただ、私は文系科目が苦手すぎて理系に逃げた人間であり、もう国語の勉強に長いこと触れていないので、実際は他にも原因があるかもしれません。
もしおかしい点や他の考えのある方はコメントしていただけるとありがたいです。
終わり。


追記 2/3

文章内の矛盾や、自分でも考えがまとまっていなかった部分について、補足?の文章を書きました。

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