安楽死に対する批判における詭弁について

安楽死に対する批判はよくあることなのだが、今回は安楽死に対する批判における詭弁について説明したいと思う。

安楽死に対する批判でこのようなものがあった。


(出典)
https://x.com/hirokatz/status/1765671204831297937?s=20 

このツイートの何が詭弁なのかをこれから説明する。

「お国のために死んでこい」と赤紙出して、「お国のために死んでこい」と片道切符で若者を敵艦に飛ばすということは、国から多額の公助によって支えられているわけではない自立した健康的な若者を国を支えるために強制的に戦場に引っ張っていくということである。対して、今の安楽死の議論は、終末期で苦しんでいる人たちを楽に死なせてあげるという話を除くと、国から多額の公助によって支えられている高齢者、後期高齢者を死なせるという話ではあるが、それは高齢者、後期高齢者のために国から多額の公助をすることをやめることにより、介護や高額医療を全額自己負担にするなどした結果、本人は介護費用を支払えず、さらに親族などが代わりに介護費用を支払ってくれたり、介護してくれたりもしなかった場合、介護が受けられずに放置されて死ぬ運命にある高齢者や、本人が高額医療の医療費を支払えず、親族なども代わりに高額医療の医療費を支払ってくれなかった場合、高額医療を受けられずに苦しむ運命にある後期高齢者を安楽死で楽に死なせてあげようという話である。

「高齢者には死ぬ義務」があるのではなく、介護費用や医療費を工面できない高齢者、後期高齢者は「"自己責任によって"死ぬ必要がある」という話である。

そもそも特に介護に関しては親族が高齢者を放置して死なせると遺棄罪になるなど、誰かが高齢者を支えないと罰せられることが問題である。

結局のところ、「国"を"支えるために若者を戦場に引っ張っていくこと」と「国"が"高齢者を支える制度をやめる過程で高齢者が安楽死する必要があるということ」は全く違うのだがこの2つの主張を同質な主張とし、批判することは詭弁なのである。この2つの主張を同質な主張だと認識してしまうことは「支えることを強制させられること」と「支えてもらえなくなること」の区別がついていないことに起因するのではないだろうか。

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