高齢者の安楽死は高齢者の自己決定権だけで考えるべきではない

この前、上記の記事を書いたが私は高齢者の安楽死は本人の自己決定権だけではなく、本人が自身にかかる福祉コストを賄えるかも勘案するべきだというスタンスである。よって、高齢者本人が死にたくないとしても、たとえば(65歳以上が介護を受けられるようにするための)介護保険制度を廃止にしたうえで、要介護状態になったときに親族が介護してくれたり、介護施設の費用を負担してくれたりせず、かつ、自身でも介護施設の費用を賄えないのであれば、高齢者本人の意志を無視して安楽死してもらう必要があるのである。

高齢者の自己決定権が最優先されるのはあくまで「自助」「共助」の範囲内であって(逆に言えば「自助」「共助」の範囲内であれば高齢者の自己決定権は最優先されるべきであり「高齢者の集団自決」のように「自助」「共助」の範囲内で生きようとしている高齢者でさえも死なせようとすることは認められない)、高齢者が何がなんでも「公助」を頼りに生き延びようとすることは認められないだろう。

現行の社会保障制度は高齢者が何がなんでも「公助」を頼りに生き延びようとすることが認められているがゆえに現役世代や将来世代の負担が重くなっている歪んだ制度となってしまっている。

私は、働かない高齢者の命よりも現役世代や将来世代の負担の削減を優先して社会保障制度を考えるべきであり、特に将来世代の負担の削減は働かない高齢者の命よりもとても重要であると考えている。

だいたい日本人は高齢者の命を重視し過ぎである。もっと軽視するべきである。

少なくとも65年も生き延びた人間のために、まだ生まれてもいない世代が負担を強いられることを当然としている社会の方が、高齢者の自己決定権が必ずしも守らない社会よりもまともではないはずだと私は信じているのである。

追記

上記の記事で「高齢者と高齢者ではない病気の人たちは、違う分類であり、前者のトリアージは妥当だが後者のトリアージは妥当ではなくするべきではなかったのではないか」と述べたのだがそれを踏まえて私は65歳未満の安楽死に関してはいかなる理由(ALS等の難病の患者など相当な理由を含む)であれ認めるべきではないとの立場である。これは明確にしておきたいので追記しておくことにする。

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