日本人には「機会費用」の概念がない

定期的に高校の授業での古文・漢文不要論が話題に上がるが大抵の場合、古文・漢文は必要派の方がSNS上では勝利しているように見受けられる。

古文・漢文は必要派の言い分はこのツイートが典型例である。


(出典)
https://x.com/jAmmAXKxn7Bvsnj/status/1762681706539295001?s=20 

「あなた自身が授業で古文・漢文を学んだことを不用にしてしまったのであって、授業で古文・漢文を学ぶこと自体は不用ではない」という主張である。

たしかに、高校の授業での古文・漢文不用派のほとんどにとっては、授業で古文・漢文を学んだことはその後の社会生活では不用だったのかもしれないが、それはその人たちが古文・漢文を学んだことを必要としない生活を選択していった結果、古文・漢文を学んだことを不用にしてしまったのであって、その他の多くの人たちにとっては授業で古文・漢文を学ぶことは不用だとは言えないかもしれない。しかし、この必要か不用かの対比自体が間違いなのである。

これはどういうことかと言うと「古文・漢文の授業をする場合」と「古文・漢文の授業をしない場合」とで比較することがミスリードなのである。正しくは、「古文・漢文の授業をする場合」と「古文・漢文の授業をしないで代わりに他の学問の授業をする場合」なのである。

このような概念は「機会費用(opportunity cost)」と呼ばれる。機会費用とは、

人間の選択行動において、ある選択を行うことで失った(選択しなかった)ものの価値をいう。

私たちは、望むものすべてを手に入れることはできない。ある選択的決定をする場合、選ばれなかった選択肢は犠牲となる。同時に全ての選択を行うことは困難であり、商品であれば、価格や性能など自分の基準で判断し選択する。

仮に選ばれなかった他の選択肢を選んだときに得たであろう価値は犠牲になっており、これが機会費用となる。

(出典)
https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/yogo/k/kikai_hiyo.html 

コロナ対策での金の使い方についても似たようなことは言えるのだが、金も時間も有限であって、ある何かにそれらを費やすことは他の何かを削ることになるのだから、そのある何かが他の何かを削ってまでやる価値があるのかということを比較検討する必要性があるという意識が今の日本人にはないのだなと強く思われる。

授業の時間が無限にあるのであれば古文・漢文だけではなく、授業中にガンダムでも見せてガンダムの内容について教室内で議論でもさせれば多少は思考力が付くであろうし、やればいいとは思う。

しかし授業の時間は有限である。

コロナ対策で嫌というほどわかったが、日本人はゼロリスク思考が強いことからも多くの日本人には機会費用という概念は理解、納得はできないのだろう。

機会費用という概念が理解できない、もしくは理解できたとしても納得できない日本人にはこれからも機会費用という概念を受け入れない代償として古文・漢文以外の社会で生きていくために必要な学問を高校の授業で学べないだけではなく、過剰な労働も増税も大人しく受け入れていくべきである。

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