語ることは癒すこと

論理などまったくわからない野生の私の場合、語れるようになるまでに様々なステップを踏む。
ある事象に気づいて、受け入れられない葛藤をおぼえる。
葛藤をしぐるぐると同じことを考え続ける。
考え続ける過程で心が枯れてしまいそうになる(枯れてしまうこともある)。
とにかく悩んで、ある程度のカオスの中を走り抜けた後、その悩みを言語化する。

言語化できた時点で悩みや不安恐れの正体がおおまかにわかってくる。
①そもそもそんなに悩まなくてよし、時間を割く必要なし、さっさと対処に分類できるのか、
②まぁなんかあれば対応すれば良いか、なんとかなるに分類できるのか、
③自分の人生に関わる重大事で果たしてこの問題が扱えるのか、その問題の正体そのものが恐れになってしまう。
そんな分類が発生する。

③の場合、語ることは癒すことになるケースが多いように思う。
自分の存在が許されるのか、根無し草なのではないか、
自分も信じられないなかで他人を信じられるわけがない。
この癒されなさをもう大人だから自分の手でどうやって抱えて、生きなおせばいいのだろうか。
生きなおすにしても失った時間は返ってこない/返してもらえない。
恨みや憎しみといったラベルを付けるにはあまりにもあらゆる感情が奥に渦巻いている。
これをさらにひも解いてことばにする作業が必要。

適切なことばを見つけて語れる状態=人にわかるように伝えられる状態まで整理できている状態、というのは光のある世界に片足を踏み入れた状態であると捉えられるように思う。

ことばを見つけるのも難しいし、悩みの正体を直視するのもしんどい。
語ることまではまだまだ辿り着かない。

生きるって難しいな。





 

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