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分岐点

「晴れるし行くか」と向かった山は、前夜に颯と雪を降らせた。
山道は既に十センチ以上積もり、今もまだ吹雪いている。登れないような風の強さではないものの、時折びゅうびゅうと吹きつけてくるパウダースノーの氷粒で顔が痛い。仕方なしに風向きを背にし、丸まって吹き付ける風をやり過ごした。
冬山は上がった体温や汗が瞬時に奪われて凍えてしまうから出来るだけ止まりたくはないけれど、突風が吹く度、痛い痛いと顔を背ける。こんな時、人間の感覚はとても正直だなと思う。背中を屈めたついでに振り返り、顰めっ面で景色を眺めると、思っているよりも真っ白だった。あっという間に雪が世界を染めてしまった。
私は今にも垂れてきそうな鼻水を啜りながら、その現実味の無い白さに息を飲んだ。

まだ誰も踏んでいない新雪はとても柔らかく、岩場をなだらかにして逆に歩きやすい。チェーンスパイクを装着することもなく、その感触を楽しむようにぎゅっぎゅと強く踏みしめる。時折、浮石が本来の薄茶色の山肌を剥き出しにして転がっていったが、いつものようなザラ付いた音はせず、無音だ。
今、あるのは風と私の呼吸、それ以外の白。

友人からの到着の連絡で飛び起きた私は、用意してあったウェアを慌てて着込んで飛び出した。高速に乗る頃、寝る前に握っておいたおにぎりと漬物をキッチンにそっくり忘れたことを思い出して、あーあと残念がられたけれど、まだしっくりこない感じが自分の中にある。
まだなにか忘れいている気がする…と考え込んでも、寝ぼけた頭では何も浮かばない。山が近付いてきた頃にはそのこと自体忘れて、山にかかる雲を見て
「控えめに言っても嫌な雲だ」とか
「山>やべ、ジェーンが来た!って雪」なんて失笑していた。
登山口で車から降りると、キンと張り詰めた空気に一瞬たじろぐ。
「冬、ちゃんとあったね」
いくら気候が夏と秋の間で揺れ動いていても、厳しい冬はきちんとスタンバイしていて、出るタイミングを伺っているのだ。
トランクに積んである荷物から、厚手のレイヤーを選んで着込む。
フェイスマスク、ニット帽と順番に装着していくと手袋が無いことに気が付いてフリーズ。
「手袋…忘れちゃったかも…」
「何か忘れてるってそれだったんだ!」
「いや、でもこの予備のくつ下をこうしてだな… ほら、パペットマペットみたいな感じで(涙目)」
「あーあ、アルプスだったら凍傷だね」
友人がザックから投げつけた予備の手袋を抱きしめて、ありがてぇありがてぇと友人を拝む。
友人のゴリはとにかく備えるタイプで、本人も昔はそれでいいと思ってたけど、年々体力も落ちてくる中、人の倍の荷物を背負っていることはどうなのか?と疑問に感じていると話していた。現に私はその装備に何度も助けられている。

稜線に出る頃に風は爆風となり、頻繁に身体が煽られた。あまりの寒さに、そこから樹林帯まで一目散に下山する。休憩しても寒くなるだけなことはわかっていた。

好きな山、嫌いな山は人それぞれだ。
得意、不得意もそう。
友人は天候の悪さでテンションガタ落ちするけれど、岩場や急登が得意だし、私は幅の狭い山道や鎖場、急登が苦手だけれど、長時間歩くことは割と得意だ。
だけど、友人は私を助けることが出来るけど、私は?
いつまでも甘えたままでいいの?
誰の力になれなくてもいいの?
白い世界でその気持ちが膨らんでいく。

先日、道で倒れた女の子を見た。
意識がなく、救急車で運ばれて行く姿を見たことが不意に思い出される。
怖かった。大切な人がそんなことになったらと思うと、予約がいっぱいだからと先延ばしにしていた消防署での救命講習をまだ受けていないことが急に悔やまれる。


風が落ち着いてから、登りながらずっと考えていたことを友人に話す。
「来シーズンまでに足りていない装備は買い揃えるし、苦手な地図読みの練習もする。もう自分で読むようにする。あと、消防署の救命講習にも行く。ゴリは万一の時ヘリ呼べるでしょ、だから私はそれを受ける」
私の意思を聞いた友人は、少しだけ嬉しそうにして、珍しく褒めてくれた。
「俺は色んな人と登るからさ、疲れるとあからさまに不機嫌になる人、不満を口に出す人ってまあまあいるなと思うけど、ジェーンは文句言わないじゃん。いつも同じテンションでいられること、俺はすごいことだと思うよ」

それは、せめて気を付けていたことだ。
連れて来てもらっている分際で不満を言わないこと。単に楽しんでいるだけっていうのもあるけれど、山じゃなくても、生活でも社会でも、どんなに親しい関係でも、それは言えることなんだと思う。
得意な人は不得意な人のサポートをし、持ちつ持たれつで関われることがベストで、甘えっぱなしや感謝を忘れるなんていうのはいつか関係に溝を生むのだと思う。
手袋やおにぎりは忘れてしまったけれど、このことに気付けたことは良かった。私の分岐点だったと思った。
迷わないようにしたい。

山を降りると晴れて虹が出ていた。
最近よく虹を見る。
虹はどこから生えているのだろう。
虹が生えているポイントも、いつか見ることが出来るといいな。


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