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夏の蜃気楼

一歩外に出れば全方位から熱波に襲われる。
サウナの扉を開けた時の、あのむせ返るような熱さに似ている。
仕事の合間に箱で買っておいたアイスを一本持ってきては食べるを繰り返していたら、見かねたYさんが声をかけてきた。
「お昼食べた?アイスばかり食べているけど、ひょっとして夏バテしているんじゃない?」
本人よりも早く妊娠に気付いた友人みたいなことを言う。
言われてみれば、ここ何日か豆腐やトマト、枝豆のようなさっぱりしたものしか口にしなくなっていた。
Yさんは自分のストックの中から、コーンスープと春雨スープを私の机に投げるように置いて
「あったかいもの食べなさい」とパソコンの画面を見たまま言った。
Yさんのぶっきらぼうな優しさは、わかりやすい優しさよりも心地いい。
Yさんは、はっきりモノを言うから誤解されることもあるけれど、誤解している人がいたら「とても優しい人ですよ」と言ってやる準備はいつも出来ている。

姉がスピリチュアルに目覚めたのか、突然キャリーケース片手に高野山へと旅立った。
とうとう姉も、と思う。
少し上の世代の女性が急に仏閣を巡るようになったり、石にパワーを頂くようになったり、地球と繋がり始めるようなことがしばしば起こるので、もうそういうものなんだと受け入れているし、そのうち私にも順番がやって来るのかもしれない。
帰ってきた姉はとにかく移動が大変だった、山登りのようなものだった、傘とキャリーケース持って道も分からないし、とメソメソ泣き言のようなことを並べていたけれど
「それでどうだったの?」と核心を探ると
「すごく良かった。また行きたい」と顔を輝かせた。
せっかく一人で飛んでいった旅がいいものだったなら良かったと胸を撫で下ろすと、今度はぼぉっとしたように一点を見つめてぽつぽつと話し出した。
「でもね、脚が疲れちゃってさ、一人でベンチに座ってたんだよ。そした失礼だけどあまりキレイじゃない身なりのおじさんが横に座ったの」
姉が言うには、そのおじさんには病気の娘さんがいて、そうすることで救われると思っている訳ではないけれど、写経をしてお参りすることが日課なんだよと話してくれたのだという。
「何だか、そのことばかり思い出しちゃってさ」
「うん。わかるよ」
「わかる?どうしてだと思う?」
「わかんないけど、すごくピュアだからじゃないかな」
「ピュアか。そっか…。あのおじさん神様だったのかな」
「それは違うと思うわ」
「私が欲深いから、改めなさいって化けて出てきたのかも」
「それはそうだと思うわ」

姉は私に紅茶を淹れろ、濃いやつが飲みたいから茶葉は二倍でお願いと命令して、そして出された紅茶を一口飲むと満足そうに目を瞑ってしばらく黙っていた。
そして急に口を開いたかと思うと
「あんたって人に恵まれてるじゃない」
「割とそうだと思うね」
「それは守られているんだよ。
 あんたがそうやって接してきたことが、返ってきてるの」
「それって守られてるっていうの?まあでも、そうなのかな。
 ところでいつ帰る?私そろそろ支度するんだけど」
「紅茶、もっと飲むからこのポットにまたお湯入れといてよ」
嚙み合わない会話を余所に洗面所でシャツを脱ぐ。
久しぶりに体重計に乗ると体重が3キロも落ちていた。Yさんの言った通りだ。
ちらっと姉の様子を伺うと、まだ物思いに耽っていて帰る気配はなさそうだ。

私が頭からシャワーを浴びて考えていたことは、姉でもなくおじさんでもなく、神様でもなく、元カレのこと。
もうずっと前のことだけど、来た連絡に結構冷たく対応してしまった。
それは相手を思ってのことだったけど、もっといいやり方があったんじゃないかと思うとじわっと嫌な気持ちになって、連絡してあれには理由があってだな、なんて言い訳をしたくなる。
もう何度これで良かったんだって自分に言い聞かせただろう。
それは恋愛感情ではなくて、いい思い出のままで、いい人のままでいたかったというエゴなのに、時折ふっとあの日の自分が現れて掻き消したい衝動に駆られる。
あぁ、そういうのダサいなといつもより頭をガシガシ泡立てた。
途中、姉が思い出したかのように
「帰るー」といつも通りの大荷物を廊下にぶつけながらドタバタと消えていった。夕飯の支度かな。

姉が居なくなったリビングで、ティーポットの蓋を開ける。
そこには濃く出された紅茶がなみなみと残っている。いつものことだ。
姉は自分の要求に答えてもらいたい人だ。そして足らないことを嫌う。
幼い時に長女として甘えたりなかったことがこんなことで埋まるなら、いくらだって淹れてやりたいと思うけど、自分の心の満たし方は自分で見つけるしかないみたい。
だけど、私は姉の考えている時の少し疲れた横顔が好きだ。Yさんの優しさを出す時の態とらしい真顔が好きだ。
氷を盛ったグラスに濃い紅茶を注ぐと、アイスティーにはピッタリな濃さだった。

翌朝、早くに目が覚めて自転車に乗った。
真夏とは思えないような澄んだ朝で、遠くに山が見えて風も涼しい。
突然秋の訪れに気が付いて、夏の終わりを知る日に似ている。本当はどこか知っていたのに、夢から覚めたくなくて見ないふりをしていた恋の終わりにも似ている。
嫌だと思っても、進むしかないということを私は知っている。
ペダルは漕ぐしかないんだね。
たまにそのことが嫌になるのに、振り返ると眩しかったりするんだよ。


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