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「海辺のカフカ」メタフォリカルな世界

「ねじまき鳥クロニクル」に続き、AudibleでAudio Book化されたため久しぶりに通して読了。

初読は10年以上前だったと思うが、当時は「メタファー」が理解できていなかったということが(恥ずかしながら)よく分かった。やたらにメタファーという言葉が出てくるので、少々しつこいなくらいに思っていた。もちろんメタファー=比喩だということは分かっていたのだけど、この物語全体がメタファーで包まれている、作中の言葉を借りればメタフォリカルな作品なのだというところが理解できていなかった。佐伯さんはお母さんかもしれないし、さくらはお姉さん、カフカ少年は佐伯さんの15歳の頃の恋人に少しだけ似ていて、という様々なメタファーが重層的に作品全体に漂っている。

ただ、改めて読み直してみても、15歳の佐伯さんが部屋に現れる場面や、(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』とも共通する)森の奥の村の場面、兵隊が出てくる場面は、幻想的で夢の中にいるようで、読んでいるうちに眠くなってきてしまう(笑)。当時の自分は集中力がなかったからな。と思って読み返してみたら、やっぱりちょっと眠くなる。的確な情景描写というか、夢の中を漂っているような表現としてはかなり成功していると言えるのか。

作中の人物では大島さんが一番好きだ。大島さんは同性愛者で、女性だけど見た目は男性で、血友病のため病院から離れた場所に住むことができないので、地元から出ることができない。服の趣味が良くて、クラシック音楽をかけながらマツダのロードスターを運転する。恐らく、その性的嗜好性や持病によってマイノリティーとしてこれまでの人生を送ってきたことから、大島さんは自分の哲学をメキメキと鍛え上げる宿命だったのだろう。そして、その自分の思想を他者へロジカルに説明することができる。とても凛としている。そして、マイノリティーだからこその寛容さや優しさに溢れている。誰にでも、という表面的なものではないが。

ナカタさんと星野青年のパートは、村上作品のなかでも一番といっていいほどアットホームというか、くだけた会話が多く、初読のときも現在でも、ホッと一息つける安心感のあるパートだ。なかでも、星野青年が喫茶店で大公トリオの演奏を聴く場面が好きだ。村上春樹が音楽について語るとき、どうしてもその音楽を聴かずにはいられなくなってしまう。そうして、僕は当時タワーレコードで大公トリオのCDを購入したわけだが、今では聴きたいと思えばサブスクリプションで検索してすぐに聴くことができる。作中に出てくる音楽を次々に聴きながら作品を読むなんて、とても贅沢なことができてしまう。便利な時代だ。

舞台が四国、高松というのも何となく雰囲気があって好きなポイントです。

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