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「人間不平等起源論」人を恨んでしまうのは、あなたのせいではない。

もともと、この本を読もうと思ったきっかけは國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』のなかの一節がきっかけだった。狩猟採集時代の話しである。

 ルソーは面白いことを言っている。自然状態においても弱い相手から獲物を奪ったり、強い相手に自分の獲物を渡したりすることはあるだろう。だが、自然状態においてはこうした略奪行為は、「自然の出来事」としかみなされないと言うのだ。
 例えば、クマに襲われ食べ物を放り出して逃げ出したとか、せっかくとった果物をつまずいて河に落としてしまったとか、はじめて出会った力の強い人間に獲物を奪われたとか、こういったことは自然状態においては区別されない。どの場合でも、「あぁあ、なんだよぉ・・・・」と思うだけである。なぜならどれも単なる「自然の出来事」だからである。もっと言えば、略奪行為であろうと、自然災害であろうと、事故であろうと、最終的には「仕方ない」と思えるのである。
 このことは逆側から見てみるとよくわかる。いま私たちは自然状態ではなくて、社会状態を生きている。その社会状態を生きている私たちはスーパーで買ってきたリンゴをだれか力の強いものに奪われたら、「仕方ない」などとは思えない。奪った相手をうらむだろう。
 それはなぜだろうか?簡単だ。「力を背景にして自分からリンゴを奪うのは不当である、なぜなら彼にはそのような権利はないからだ」と思えるからに他ならない。つまり、社会状態を前提とし、構成員全員が平等な権利を持つと前提して初めて、恨みなどの感情が生まれるのだ。
『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 p183-184

社会というものが出来上がる前(つまり狩猟採集時代)は、自然状態だったから、「嫌な奴がいればどこか別の場所に行けばいい」という単純な発想だった。だが、食糧を得る方法が狩猟から農耕に変化していくにつれて、定住による様々な弊害が出てくることになる。弊害というか、それ故に社会が形成されていくことになる。

初期の農耕民は、祖先の狩猟採集民以上とは言わないまでも、彼らに劣らず暴力的だった。農耕民のほうが所有物が多く、栽培のための土地も必要とした。放牧に適した草地を近隣の人々に襲われて奪い取られれば、生存が脅かされ、飢え死にしかねなかったので、妥協の余地はずっと少なかった。狩猟採集民の生活集団が、自らより強力な集団に圧倒されたら、たいていよそへ移動できた。それは困難で危険ではあったが、実行可能だった。ところが、農村が強力な敵に脅かされた場合には、避難すれば畑も家も穀倉も明け渡すことになった。そのため、多くの場合、避難民は飢え死にした。したがって、農耕民はその場に踏みとどまり、あくまで戦いがちだった。
『サピエンス全史 上』ユヴァル・ノア・ハラリ p110

農耕社会じゃなければ、野武士から村を守ってもらうために『七人の侍』を雇わなくても良い。逃げれば良いのである。

やがて決まった場所に定住した人々は、次第に集まって部族、村などの社会を形成する。いつも同じ隣人と暮らしていると、複数の家族のあいだにある種の結びつきが発生する。男女の出会いもある。恋愛や嫉妬も生まれる。そして、自尊心という感情が生まれる。

人々は小屋の前に集まったり、大木の下に集まったりすることに慣れた。恋愛と余暇の真の産物である歌と踊りが、群れ集う暇な男女にとっての娯楽となり、むしろ仕事のようなものとなった。誰もが他人を眺め、誰もが他人に眺められたいと思うようになる。こうして公の尊敬を受けることが重要になり始める。もっとも巧みに歌うものや巧みに踊るものが尊敬され、もっとも美しい者、もっとも強いもの、もっとも巧みなもの、もっとも雄弁なものが、もっとも尊敬されるようになる。これが不平等が発生するための、そして同時に悪徳が生まれるための最初の一歩となったのである。
『人間不平等起源論』ルソー p136

「尊敬されたい」という自尊心は集団という社会が形成されたことから生まれた感情だった。自尊心は人間の本能ではなく、文明社会が生み出した産物なのだ。

人々が互いに評価しあうようになり、尊敬という観念が心のうちに生まれると、誰もが自分こそ尊敬される権利があると主張するようになる。誰に対しても尊敬の念を欠くことは許されないことになった。こうして野生人のあいだにも、礼儀作法の義務の萌芽が芽生えたのである。そして意図して礼儀作法に従わないことは侮辱とみなされた。侮辱されたものは、侮辱されたという実際の被害だけでなく、自分の人格への侮蔑を感じたのであり、それはしばしば実際の被害よりも耐え難いものと思われたのである。
『人間不平等起源論』ルソー p136-137

自尊心がでかいほど、侮辱されたと感じるんだから厄介なものだ。しかし、ルソーは別に「だから自然に帰ろう」と言っているわけではない。むしろ自然状態とは「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことのない、たぶん将来も決して存在しないような状態」と述べている。だから、人間は本来自然状態なのだけど、社会という仕組みのなかでは否応なくそういうギクシャクした悪徳やうらみという感情を持ってしまう生き物なのだということを理解しておけば良いと思う。良いというか、そういう相対的な視点を持っておくと少し安心するところがある。

現実社会でも、人間本来の自然状態を思い出して、嫌なことや自尊心を傷つけられることがあっても「あぁあ、なんだよぉ・・・・」と思うにとどめられれば良い。上司や職場の同僚から侮辱するような態度や言動をされても、「仕方ない」と思って人を恨まない。これはあの人が悪いんじゃない、あの人に明日も明後日も会わなければいけないという社会の仕組みが産み出した悪徳なんだ。と思えば、人生を少し楽に生きられるかもかもしれない。

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