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「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その7 (全8回)

天正十一年(1583)十一月。三河にて「織田信雄、切腹」の風間が流れるも詳しく調べると事実無根であった。 しかし、そのような不穏な噂が流れるほど、羽柴秀吉と織田信雄の関係は険悪になっていた。

天正十二年(1584)正月。羽柴秀吉と織田信雄の不仲を見かねた蒲生氏郷と池田恒興が近江国、三井寺に会談の場を設け調停を図る。 

織田信雄が眉間にしわを寄せ、肩をいからせて本堂に入ると羽柴秀吉が立礼を取って待っていた。差し向かいで座る信雄と秀吉。

織田信雄は能をたしなむだけあって均整の取れた体つきであったが、いささか線が細く、風貌も信長に似ているがやや柔和であった。 

信雄「筑前(秀吉)。先だって前田玄以を京都所司代に任じたが、方々で話が通らず差配が滞っていると聞いておる。何か心当たりは無いか」 

秀吉「さて。某は槍を片手に戦場を駆けずり回るより他に能の無い男。どういうことでございましょうなあ」


信雄は怪訝な顔つきになる。秀吉が武辺を事とする、槍自慢などと聞いたことが無い。 
信雄「何を決めるにも筑前の添え状が無くては決まらぬ、と言うではないか。それはいかなる仕儀じゃ」

秀吉は信雄が言い終わるか終わらぬかという内に「ときに信雄様がお使いになられている朱印。「威加海内」。あれは止められたほうがよろしいかもしれませぬな。亡き上様(信長)の猿真似のような振る舞いは、かえって上様の英名をそこなうことにもなりかねませぬ。 ああ、そういえば伊賀攻めの件。信雄様、利あらざるところを上様の御出馬あって、我らも骨を折って働き、事なきを得た。 そのようなこともございましたなあ」

秀吉はしみじみとした口ぶりで言った。
伊賀攻め、と聞いて信雄はわなわなと震える。

信雄「伊賀攻めで筑前の世話にはなっておらぬ……っ!」 

織田信雄は独断で伊賀攻めを仕掛けながら伊賀国衆の反抗に遭って惨敗し、天正九年(1581)になって織田信長に増援を出してもらい、辛うじて平定した経緯があった。 

秀吉「そうでございましたかのう? いやあ、しかしあれが信忠様や信孝殿であれば、あのような手間は要らなかったやも」 

信雄は声を荒ける「筑前!我を愚弄する気か!」

秀吉は、驚き、 おののくような顔を作る。

秀吉「愚弄するなどと滅相もござりませぬ! 某はただ、御家老の津川殿、岡田殿、浅井殿から 三法師君のみならず信雄様もよしなに取り計らえと頼まれ心を尽くしておりますというのに・・・・・・」

秀吉は握りこぶしを目元にやる「亡き上様から受けた御恩を万分の一でもお返し申そうとしておりますのに。某は、某は悲しゅうござるっ」

信雄は総毛立って、言う「筑前!覚えておれよ!」 

信雄は障子を蹴立てぬばかりの勢いで本堂を出て行く。
近くで控えていた池田恒興が信雄に声をかける。
池田恒興「信雄様!お待ち下され!しばし、お待ちを」
信雄は聞く耳を持たず、三井寺を後にした。 

池田恒興は肩を落とした。あのような見え透いた挑発に易々と乗せられるとは。

池田恒興「......、上様の御孫、三法師君を守り立てるは信雄様でもなければ、まして筑前でもない。この勝三郎(恒興)じゃ」

しかし、今のままでは武功が足りぬ。武功を立てねばならぬ。そう思う池田恒興であった。


天正十二年(1584) 二月。夜更けに浜松城の書院の間には酒井忠次、石川数正、榊原康政、井伊直政、本多忠勝が集められた。 

その夜は妙に生暖かかった。上座にて徳川家康は皆が来るのを待ち、傍らにはすでに本多正信が控えていた。諸将は正信をいぶかしげに、ちらと見る。


家康「皆揃ったな。まずはこれを」
 家康は密書を酒井忠次に渡す。忠次は一読して、順に回す。 密書は織田信雄からのものであった。 羽柴秀吉から受けた仕打ちに対する恨み言がこんこんと書かれていた。

榊原康政「窮鳥懐に入るは、仁人のあわれむ所なり、とは申しますが。 こうも明け透けに頼られては面食らいますな。 気質は父親には似ておられぬようで」

家康「進退きわまった、ということであろう。わしは信雄殿にお味方する」

織田信雄に付く、それはこと此処に至っては羽柴秀吉と戦になるということであった。

石川数正「されど羽柴はいまや播磨に加え、畿内の北半分を領する大大名。容易ならざる相手ですぞ」 

柱に寄りかかって立て膝の本多忠勝が口をはさむ「まあ、戦と言うものは兵の多寡のみで決せぬものではありますが」
酒井忠次は、えへん、と咳払いをする。

家康「それについては策を用意してある。正信」本多正信「ははっ」 正信は畿内近傍の地図を広げ、兵棋を置く。

正信「当家は織田信雄殿にお味方する。そして四国の長宗我部とも手を携えまする。そこから紀伊の雑賀衆、羽柴に従うを良しとせぬ者共とも手を携えて羽柴を取り囲み、しめ上げる。しかるのち一勝して美濃の池田恒興殿の間に楔を打ち込み、池田殿をこちらに引き入れる。さすれば、今は勢いに乗る羽柴秀吉に従うばかりの諸大名も離反いたしましょう」 畿内全域を巻き込む壮大な策であった。

酒井忠次「して、その一勝とやらは如何にして勝つ?」 

正信「おそらく。秀吉は美濃表あたりから陣城をあまた築いてきましょう。そしてこちらが攻め疲れた所を大軍で押しつぶす。これが秀吉の定石でござる。であればこちらも尾張表に陣城を築く。しびれを切らした秀吉は三河へ何がしか仕掛けてくるでしょう。そこに付け入る隙があるかと」 

酒井忠次「何がしか、とは如何なる策か?」 

正信「陸からかもしれませぬし、海からかもしれませぬ」 

酒井忠次「はっきりせぬな」

石川数正は正信に問う「陣城からの大軍を用いるを秀吉の定石とまで言い切ったが、根拠はあるのか?」

正信「それについてはこちらをご覧下され」 正信は十数枚ほどの合戦の絵図を差し出す。

正信「茶屋四郎次郎どのに世話になっておったころに、それがしが書き溜めたものでござる。畿内での大きな戦がまとめてありまする」 
絵図には主に秀吉が戦った合戦の布陣、大まかな兵数が書き込まれていた。絵図の中には秀吉が山崎で明智光秀を破った戦、賤ヶ岳で柴田勝家を破った戦の絵図も含まれていた。 

家康が絵図を手に取って見ると、皆、後に続いて絵図を手に取る。

石川数正「正信。これらの絵図が正しいという証しはあるのか?」 皆の視線が正信に集まる。

そんな中、井伊直政が言う「この絵図、信じてよかろうと思いまする。十数年かけ、これだけの絵図をまとめる。殿への忠義無くては為しえぬことかと」 

榊原康政「尾張表で戦とあらば小牧山城を本陣となされるべきと存じまする。信長公は小牧山を足掛かりに岐阜城を取り、而して天下を取った。此度、殿と信雄殿が小牧山を本陣となされば、義は我らにあるを世に広く知らしめることとなりましょう。手配も済ませてありますので、 いつでも作事に取り掛かれまする」

家康「なんと。手回しのよいことじゃ。小牧山を本陣とし要害とせよ。康政、任せたぞ」物事を広く見ている。榊原康政の言を聞き、家康はそう思った。

続いて家康は酒井忠次、石川数正に、三河国、遠江国へ徳政令を出すよう指示する。

徳政令と聞き、正信は家康に進言する「殿。戦は武士のみにて行うにあらず。徳政令はお考え直しくだされ」

家康は正信の絵図を手に言う「わしもお主が書いた絵図を見たが、これによれば山崎の合戦で羽柴四万に対し明智二万。 賤ヶ岳の合戦では羽柴六万に対し柴田三万、と書いてある。ということは此度の戦、秀吉は九万の兵を繰り出してくることになる」

正信「されど、町衆の恨みを買いまするぞ」

家康「すでに三河、遠江に秀吉の調略が及んでおる。調略を退け、当家に繋ぎとめておくためじゃ。今は一兵でも欲しい。諸大名が秀吉から離反する前にこちらが崩れては元も子もない」 正信は腑に落ちなかった。しかし、その理由が正信自身はっきりと分からなかったので、強く反論はしなかった。


天正十二年三月六日。織田信雄は家老の津川義冬、岡田重孝、浅井長時を羽柴秀吉と内通した疑いをもって上意討ちにする。 津川、岡田、浅井の三家老は去る二月の三井寺での会見前に秀吉と起請文を取り交わしていたのであった。 

一方、徳川家康は三月七日に三河、岡崎城へと移る。


織田信雄が津川、岡田、浅井の三家老を上意討ちした報せは大坂の羽柴秀吉の許に届けられていた。 

秀吉は弟の羽柴秀長に言う「信雄様が津川殿、岡田殿、浅井殿を成敗なさったそうじゃ。お三方はこのわしと起請文を取り交わしたというのに。 戦は避けられぬのう。残念なことじゃ」 

羽柴秀長は秀吉の態度が鷹陽も過ぎるような気がしてならなかった「兄者。このようにのんびり構えておってよいのですか」

秀吉は身振り手振りを交えて言う「相手は能にご執心の信雄様と、律儀、律儀の家康殿じゃ。だいじょうぶじゃ。兵法の極意は虚実。攻めると見せかけて背を見せる。敵が油断したところで、さっと振り返り、ひいふっと撃つ。賤ヶ岳の時もそうじゃったろうが」

羽柴秀長「わしも近ごろ「孫子」を読み始めました。兵は拙速を聞く、と申すとか」 

秀吉「分かった、分かった。小一郎(秀長)、北伊勢に打ち入れ。子細は好きにしてよいぞ」

 三月九日。秀吉は織田信雄、徳川家康に戦を宣する。三月十一日、羽柴勢が織田信雄の領国、北伊勢に打ち入ることとなる。


三月十三日。家康は尾張、清洲城に入城。美濃方面では大垣城主の池田恒興が尾張に打ち入り、犬山城を攻め落とす。

犬山城の南にある羽黒砦には池田恒興の娘婿、森長可が守りを固めていた。

十七日。家康の命を受けた松平家忠、酒井忠次が羽黒砦に攻め掛かり、森長可の軍勢を破る。

世に言う、小牧長久手の戦いの火蓋は切られた。

十八日。家康は小牧山城に入り、本陣とする。榊原康政の言葉通り、人足が集まり材木が運び込まれて作事が始まる。小牧山城を起点に南東へ蟹清水、北外山、宇田津、田楽と徳川方の砦が築かれる。


羽柴秀吉が軍勢を率いて大坂城を立ったのは三月二十一日のことであった。

羽柴の軍勢が大坂城下に入ると、馬上の秀吉は鳥獣文様綴織の陣羽織を町衆に見せる。ペルシャ絨毯を陣羽織に仕立て直したものであった。 秀吉「皆の衆!見てくれ、見事なもんじゃろう! 張り込んで作ってしもうた! おかげで、すかんぴんじゃあ!  がっちり稼いでくるでのう!」

稲葉重通はそんな秀吉を苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。 

稲葉重通は、美濃斎藤氏の重臣であった稲葉一鉄の子で清洲会議の後は、秀吉に従い馬廻となっていた。

稲葉重通「何が、すかんぴん、じゃ。かように巨大な城を建てているくせに。白々しい」

同じく秀吉に従い、佐和山九万石を領する堀秀政が稲葉重通に馬を寄せる。

堀秀政「されど、町衆の受けは取っておりますからな」 

稲葉重通はなお不機嫌な面持ちになった。


三月二十七日、羽柴秀吉は伊勢行きの予定を変え、尾張犬山城に入城。同二十九日、羽黒砦の南、楽田砦を本陣とした。

秀吉は織田・徳川勢に対し、楽田砦の他に小口砦、青塚砦、田中砦を築く。

その前方には岩崎山砦と二重堀砦をつなぐ、長さは約一里半、高さ一間半ほどの土塁を築かせた。

その上、土塁は二重堀からさらに南、篠木、守山まで延びる気配を見せていた。

徳川家康は小牧山城の櫓から羽柴方の土塁を見る。
家康「ここまでは目算通りと言ったところじゃな」 
本多正信「さて、秀吉はどう出てくるか」
(その8に続く)


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