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朝のひとときの余白が「私」を思い出す

 炊き立てのご飯。最近の楽しみの一つである。仕事をしていたら、時間をかけて料理をすることが出来なくなった。炊き立てのご飯が私のエネルギー源である。

 今朝は土曜日。目覚ましをかけずに朝を迎える時間的余裕がある。そして、白湯を飲んで一息つける心の余裕もある。ありがたい。

 ふとおにぎりが食べたくなったが、海苔が切れていた。海苔が無いのか~と思ったが、今日はそれでも食べたいと思った。

 なぜか、素手でおにぎりをにぎってみようと思った。ちなみに、今まではラップでにぎっていた。安全面を大切にしている母からの教えが染みついている。素手に抵抗が無かったわけではないが、一人暮らしを始めると、節約出来るところに敏感になった。ラップの使用もその一つ。私は保存容器に食材を保存するので、ほとんどラップを使わない。おにぎりをにぎるためにラップを使うことにもったいないという気持ちがあったので、思わずお米を手の上に乗せる。

 熱い!!炊き立てのお米の熱が直に伝わってくる。あっ、にぎる前に手を洗わなかったことを思い出したが、もう遅い。まあいっか!と手に力を込める。手にたくさんのお米がついた。あっ、水をつけてにぎらなかった…(笑) と頭の中でもう一人の自分が呟く。手に残ったお米をつまむ。美味しい。空腹に染みる。

 初めての経験にワクワクとドキドキが溢れてくる。いつもの朝が少し特別な朝になった。次のおにぎりは手に水をつけてふわっとにぎった。パクっとかぶりつきたくなるのを我慢して机に座る。何と不格好なおにぎりだが、本当に美味しかった。にぎるときも食べるときも一つ一つのお米を感じることが出来た。

 食べることは私が自分らしく前向きに生きるために欠かせないものであるが、時間に追われる日々の中では、味わって食べることが出来なくなってしまう。疲れているからか、給食や夕食は放心状態になってしまう。でも、食べると落ち着く。元気が湧いて来る。やはり、食べることは回復することである。

 最近、朝の準備のときに身体、特に足が重くなる。どこかに逃げ出したいという思いと学校に行かないとという責任感が闘っている。でも、炊き立てのご飯を食べると、お腹の下のあたりからポカポカ温かくなってきて、今日だけ頑張ってみるかと思えてくる。今にも壊れてしまいそう、壊れてしまいたいと思いながら、一応踏み止まれている。無性に実家に帰りたくなるときもある。おそらく、日常から逃げ出したいのだと思う。出来ることなら、休みたいのだと思う。

 昨日、同僚の一人が長期間の休職となった。真面目で優しい人だったので、休職するという決断には相当の迷いや葛藤、苦しみがあったと想像できるが、休んだらいいと思う。

 先生として頑張る自分と笑っている自分、楽しそうに話す自分、美味しいものを食べる自分…様々な自分がいる中で、先生としての自分が他の自分をどんどん侵食していくのだろう。休まないと自分が好きな自分が奪われたり、壊れたりする。先生としての自分は壊れてもいい。でも、先生として頑張り続けるために犠牲にしている自分が好きな自分が壊れてしまうことだけはあってはならないと思った。どうかゆっくり休んでほしい。

 美しい青空の下、爽やかな風が窓から入り込んでくる。気持ちがいい。何に追われているか分からない日々におしつぶされて、自分が好きな自分が壊れないように守るにはどうしたらいいかを考えた。ご飯をゆっくり食べる、本屋や図書館を巡る、空や鴨川をぼーっと眺める、来週の献立を考えながら食材を買う…以前、私が書き綴った「好きで溢れる日々に」を思い出した。先生としての自分だけであってはならない。自分が好きな自分でいられる瞬間を日々の中に作っていけたら、ふっと肩の力を抜ける瞬間が生まれるのだろうと思う。

 さあ、今日は私にとっての余白の時間。日々頑張り続けるすべての皆様にささやかな、でも、不可欠な、ふっと微笑みがこぼれる、自分が好きな自分であれる、そんな余白が訪れますように。

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