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限界を決めない私、いいかも!

 限界を決めてるからしんどいのかも…
 今朝のランニングでそう思い、自分が忘れないためにここに記す。
最近、体力の衰えを感じて自暴自棄になることがある。今朝のランニングも気持ちが乗らなかった。鴨川を走っている人を見ては、何であそこまで自分を追い込めるのだろうと考える。そして、その矛先は頑張れていない自分に向き、自分を痛めつける言葉を自分でかける。きっと、走れるあの人が羨ましいのである。理想とはかけ離れた自分と向きあうのが嫌なのである。

 今朝は二条城の周りをランニング。2週目に差しかかると、「次でもう止めよう、だから頑張れ」と自分に言い聞かせる。しかし、ふと思う。いつからだろう、こうやって無理をしない自分でなくなったのは…と。私は何でも全力でやってきた。まずはやってみる。そうやって生きてきた。周囲からは「無理をしすぎないで」とよく言われていた。でも、いつからか限界の線を自分で引き始めた。何でもやり切る前からここまでやったらいいだろうとか、ここまでで一回止めておこうとか…。もちろん、限界や区切りを決めないと取り返しのつかないことや終わりの見えないものは世の中にはある。でも、本当に無理ってところまでやってみて分かることもあるのではないかと思えてきた。多分、限界までやってみて初めて、本当の意味での限界が分かるようになってくる。限界とはそういうものではないだろうか。少なくとも、やってもいないのに決められるものではないと思う。ランニングもそうだ。二条城の周りを「2周する」と決めていくと「2周は走らなくては…」となるが、行けるところまで行ってみようと思うと、何か気持ちがワクワクする。本当に無理となったら、きっと身体が教えてくれる。

 子どもの頃、20mシャトルランや長距離走が得意だと思っていた私。走り終わった後は疲労困憊で呼吸が精一杯だった。限界を知らない私である。「まだ行けるかも、まだ走れるかも」と言いながら走った。熱中症になりかけて保健室に連れて行かれたこともある。ここで初めて、自分の記録と向きあうのだが、最終的には、やり切ったという納得感のある記録となる。

 他にも、知らず知らずのうちに限界を決めていることはある気がする。身近には、時間ギリギリの電車に乗れるかを判断するときである。前までは、何が何でも乗ると決めて無我夢中で走った。それが、いつからか諦めるようになった。そんな自分が嫌である。

 限界を決めると楽な一面もある。できない自分を目の当たりにしなくてもいいからである。でも、私の場合、それでは何となくやり切った感が出ない。もっとやれたんじゃないか、全力を出し切ったといえないんじゃないかと思い、頑張ったと自分に言ってあげられない。その方が苦しい。だから、私は限界を決めずにやれるところまでやってみ!と自分に言ってあげたいと思う。

 そんなふうに思えた今日は、足がガクガクなるまで走った。ペースはカメさん。でも、気持ちよかった。やり切ったと胸を張って言えた。きっと、他のランナーさんから見ると、若いくせに遅いなと思われたかもしれない。何周も走る人を見ると、その人と自分を比べて落ち込みそうになる。
 でも、意識を自分軸に戻す。私が目指すものはどこなのか。自分の身体は自分であるために必要なもの。私は子どもと走り続けられるエネルギッシュな先生になりたい。そのために、私は今日も自分のペースで走れる限り走り続ける。

 限界を決めない生き方の方が楽な人もいる。限界を決めるからこそ頑張れる人もいる。でも、限界を決めているのは自分で、もしかしたら、限界だと思っていたことがそうではない場合もある。思っている限界を超えたときの自分はどんな自分なんだろう。意外に簡単に出会えるかもしれない。

 限界を知らない子どもの頃の私。限界を決めない今の私。
私は、そんな生き方が結構好きなんです。

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