『見えない裁判官』と闘う日々の中での『自分軸』とは
『自分軸』で生きる
『自分らしく』生きる
最近、よく目にする言葉。
そもそも、『自分軸』とは何ぞやと調べてみる。
①他人の目を気にしない、②他人と自分を比較しない、③理性ではなく感情で判断する・・・結構、色々ある。
なるほど・・・
『自分がこうしたい!』という考えを大切に行動することらしい。
私は『自分軸で生きる』ことができているのだろうか。
出した答えは、『できていることもあるし、できていないこともある』
そんな気がする。みんなもそうなのかな。
『自分軸』で生きることができていることはどんなことがあるかを考えると、今週行われる研究会への参加、今、結果待ちのアルバイトの応募、教員採用試験の受験地の決定、今のタイトルでnoteを書くこと、二条城の周りをランニングすること・・・と思い当たるものが出てきた。
『自分がこうしたい!』と思って行動したことの多くは、そもそも本気度が違う気がする。「やろう!」と意気込まなくても自然と夢中になれる感覚で、その夢中さが結構楽しいし、好き。
でも、本当に『自分がこうしたい!』って決めたことなのかなと思うときもある。『こうあるべき、こうあった方がいい』で決めてない?
それも『自分軸』って言うのかな?『自分軸』って難しい~(笑)
こんな不安定な状態でnote書いていいのかなと思いつつ、
『自分軸』で生きることができていない=『自分がしたい!』と思ったのに、できていないことを考えてみる。
例えば、昼寝とか・・・
自分が疲れているから寝たいと思っても、
「日中に寝るとか暇なの」
「やるべきこと終わらせずに寝るなんて自分に甘い」
「昨日の夜も十分に寝てるのに怠けている」とか・・・
色んな声が聞こえてきて、結局寝れないことの方が多い。
寝たとしても、自分を責めてしまう。
他には、ランニングのペースとか・・・
二条城を走っていて、追い抜かされるときがある。
そんなときの私の頭の中は・・・
「ゆっくりゆっくり走ってるからだよ」
「あの人、自分よりも年配の方じゃん・・・私の体力やばくない?」
そう思うと、足がガクガクしていても、息が上がっていてもペースを上げて追い抜かそうとする。
走る習慣がついて、確実に体力はついてきた。でも、目の前の結果に振り回されてしまう。自分の頑張りを自分で認めてあげるって簡単じゃない。
さらに、食べたいものとか・・・
「これ食べたい!」と思っても、
私の頭の中では・・・
「太るよ」
「そんなに動いてないから食べない方がいいよ」
「ここで自分を許すと弱いよ」とか・・・
厳しすぎる裁判官がいる。
自分の感情に素直になるって難しいんだ。
私の中には、私の心とは別に私を決める誰かがいる。
私はそれを『見えない裁判官』と呼んでいる。
『見えない裁判官』は、いつも私の近くにいて、私を見張っている。
私が『自分軸で生きる』ということは、この裁判官と戦って、勝ち抜くことを意味している。この『裁判官』は、私に『常識』や『正義』、『理想』らしきものをぶつけてくる。天秤の片方にそれらを乗せてくるのだ。その勝負に勝ったときだけ、『自分軸』であることができる。
こんなふうに考えていると、
『自分軸で生きよう』とすることって、少し私には難しい気がする。
厳しすぎる裁判官を自分から遠ざけることが難しい。
そもそも『自分軸』で決めたと思っていることが、本当に『自分がこうしたい!』ことなのかどうかも分からなくなってきた。
だって、『自分がどうあるべきか』は常に考えてきたけれど、
『自分はどうしたいの?』と自分に聴いてあげたことはあまりなかったから、『自分がこうしたい!』が分からないときだってあるんだよね。
こんなに他人と比較できる社会で生きていたら、『自分軸』が分からなくなるときだってあるんじゃないと思ったりもする。
だったら、私の場合、まずは、自分の心に聴いてあげたい。
『私はどうしたいの?』って。
自分の心に耳を傾けてあげること。それが1回でも、2回でも増えていったら、そのうち、自分の気持ちに素直になれるときが来るよ。そう信じてる。(別に、昼寝してもいいじゃん、走るのが遅くてもいいじゃん、少し丸くなっても食べたいものを美味しく食べたらいいやん。)
だって、誰の人生でもなく自分の人生を生きていいのだから。
私の場合、いつも『自分がこうしたい!』と思うのは、『理想』(=こうあるべきと思っていること)である場合が多い。でも、いつもいつも『自分がこうしたい!』という『理想』を追い求めていると疲れてしまうから、たまには、日々の選択の中で『ベスト』=『完璧』ではなく『ベター』を。そして、結果的に自分が楽に生きられるように選択できたらいいな。(厳しさを少し緩めたい) 選択する基準が『他人軸』であっても、私の選択だったと最終的に『自分軸』に引き寄せて、ポジティブかつワクワク感で考えられたらいいんじゃないかな。
きっと、『見えない裁判官』は誰の心の中にもいる。
もしかしたら、『見えない裁判官』と向き合って『自分軸』で生きようとすることは、『受け入れがたい自分』と向き合うことになる場合もある。
だからこそ、その裁判官から逃げるんじゃなくて、「私はどうしたいの?」って聴いてあげて、その裁判官と対話することを繰り返して、「いいじゃん」ってどんな自分をも受け入れてあげられた分だけ、『自分軸』で生きることができるんじゃないかと思う。でも、自分と向き合って受け入れるって苦しみを伴うから、『自分軸』で生きている人はそれを乗り越えてきた人だと私は思う。
本当はきっちりと結論をまとめて終わりたいけれど、このテーマは私が私自身と向き合ってもがいている過程なので、『つづく』で終わりたいと思う。
「今、私は何がしたい?」
しっかり考えてお腹が空いたので、ご飯を食べようかな!!
本日もお疲れ様でした!!読んでくれてありがとうございました!!
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