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生き続ける


あらゆる人間は、常に、何者かを通して、
生き続けようとしているのである。
詩人も、その例外ではない。
彼は、詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、
決して、詩そのものを求めて生きているのではない。
  
我々は、詩を書くために生きているのではない。
生きていくために、あるいは、生きているから、詩を書くのである。
私は詩に惚れていないが、世界に惚れている。
私が言葉をつかまえることができるのは、私が、言葉を追う故にではない。
私が世界を追う故である。
私は、なぜ世界を追うのか。
なぜなら、わたしは生きている。

谷川俊太郎(1956)「世界へ!」

立教大学、中原教授の記事で紹介されていて、
この詩を知ったのですが、
この「詩」を「研究」に置き換えられて、
書かれていました。
こちら

それを見てまた、「詩」を
「書くこと」に、とても僭越ながら、
置き換えるー。置き換えるというのも
はばかれますが、どこか自然と、
置き換える以前に、とてもしっくりと
馴染んだんです。

前提として、冒頭の、
「生き続けようとしている」ということにまず
衝撃のような、でも染み入る気持ちになります

生きているのではなく、
生き続けている。

そして、
決して、
「書くことを求めて生きているのではない」。
書くことを投稿することで、承認・称賛を
求めて生きているのではない。

生きていくために、あるいは、
生きているから、noteをブログを書く。

さらに、
「世界に惚れている」と。

そのことを、決して
「わかる」なんておこがましいことは
言えません。

が、「書くことに惚れる」
自分の書いたことに惚れているわけではなく、
「この世の中」に。
「この世の中にいる人々」のことが、
好きなんだな。
嫌いだったり、世の中に異を唱えたいわけ
ではなくて、
「同」を想う。

書く中で、言葉はきっと磨かれていくし、
「上手」になってはいくんだろうけれど、
書くから、磨かれるんではなくて、
「世界」の中で書いていて、
「人々」の中の一部だと思って書いているから
磨かれていくものがある。

世界は、人でできている。
多様、異質、という前提ではなくて、
同じだというところに立っていたいんだな、
自分、と。

なぜ、「世界」を意識するのか。
それは、「人の間」で生きているから。

生き続けてきたし、
これからも生き続けていくのだろうから、と。

タイトルが、愉快なんです。

「世界へ!」

そんな域、勢いには到底たてませんが、
「世界で」ってことは、大切にしたいと
思います。

「世界」ってなんだろう?

あまりにも手触り感がなくて、
目を凝らしてもみえないんですが。

自分と隔たりのあるものではなくて、
自分の一部であり、
人々が生きている中の一部に
自分の生を感じられる場所。

なのかな。

正解はありません。
あるのは、生き続けること。

きょうもお読みいただき
ありがとうございます。

写真は、きょうの太陽の塔です。
54年生き続けています。

すっごいゲリラ豪雨→快晴→ゲリラ豪雨、
っていう乱れる空、慌てる人々をみてなお、
表情ひとつかえないで、塔は佇んでました。

世界の国から、迎えて54年。
見据えているのはどこなんだろう。
世界へ!かな。

いや、ここで、生き続けること、
のように見えてくる。

世界から惚れられてるのではなく、
世界に惚れている顔、かもしれない。

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