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変わってもいい道徳と私


道徳は便宜の異名である。
「左側通行」と似たものである。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との
節約である。
道徳の与える損害は完全なる
良心の麻痺である。

良心は道徳を造るかも知れぬ。
しかし道徳は未だ嘗て、
良心の良の字も造ったことはない。

芥川龍之介
・芥川龍之介『株儒の言葉』より

『新しい道徳』北野武

一行目で撃たれます。

「道徳」は「道徳」だから、
他の言葉に置き換えることなんて考えなかった

そのことが、そもそも危ういなあと。

「左側通行なんだから左側通行」
という変な“理屈”と思考停止。


「時間と労力の節約」
「考えなくていい。大人が考えるから、
 いや、昔からそうだから、
 子どもたちは考えるのも無駄、
 それに従え」とでもいわんばかりの道徳は
おそろしい。

たしかに、その恩恵に預かってきた気がする。

そして、「良心の麻痺」

あたりまえの良心。
良心の裏側は考えることもない。

「良心とは何か」
考えることもない。

道徳は、なんのためにあるのか?

「道徳の授業」が変遷してきたように、
「道徳」も、変わってきて当然だけど、
それが議論されることもなく、あいまいで、
結果、弊害すら生んでいるかもしれない。

俺がこう思うというだけのことで、その考えを誰かに押しつけるつもりはまったくない。
なるほどと思う人間もいるし、思わない人間もいるだろう。
腹が立つかもしれないが、それは読者の自由だ。好きに腹を立ててもらいたい。
腹が立って、誰かにそれを話したくなって、話すだけじゃ飽き足りなくて、ネットにじゃんじゃん悪口を書き散らすのも大歓迎だ。
かえって宣伝になって、売れるから。
べつに誰かを怒らせたくて、書いたわけではないけれど。
誰かに同調してほしくて書いたわけでもない。
なんだかおかしいなあと思うから書いただけだ。
道徳の話だ。

同上

「なんだかおかしいなあ」

という違和感はあっても、
言いにくい空気がある。

「道徳に反するものは
 有無を言わさず叩く」という道徳?


書いたら本にしてやるし、印税もたっぷりとはいかないがちょっとくらいならやるという、奇特な編集者がいたので本にした。
こういう馬鹿なことをいう奴もいるのだと、笑い飛ばしながら読んでいただけるなら、著者として、これ以上の幸いはない。

同上


どことなく、「笑い飛ばす」っていう
余白のない世の中。

「冗談ひとつ言えない」

「笑ってはいけない」道徳。


視野が広がれば、モノの見え方は変わるわけで、だからこそ「いいこと」は時代とともに変わっていく。何年か後には、鮨屋でトロを握ってもらっただけで、極悪人と呼ばれるようになるかもしれないわけだ。それがいいかどうかは別にして。
「いいこと」は、簡単に「悪いこと」になる。
ということは「いいこと」の集大成みたいな「道徳」の内容だって、時代と一緒に変わっていかなきゃおかしいのだ。
ところが世の大人は、自分が子どもだった頃の、昔ながらの「道徳」を子どもに押しつけたがる。「いいこと」は永遠に不変だと言じているからだ。

同上

「正義」よりも「適切なこと」を
求めていく方が、良いことかもしれない。
と、最近よく思う。

仕事上の「正義」は、「かくあるべき」
という前例(または前例がない)で語られる。

生活上の正義も、おなじく、たいてい、
親の「かくあるべき道徳」で語られる。

語られるならまだしも、支配される。

変わる方が大変で、
変わらない方が楽だ。

そんなものかもしれない。
でもきっと世の中に変わらないものはなくて。

変わってはいけない、変えてはいけない
風潮のなかで。

自分も、一年前ときのうとちがうし、
きっとあしたも、一年後も違うだろう。

あらゆるものは、永遠に変であり、
変わらないために、変わり続けていたい。

今日もお読みいただきありがとうございます

まとまりなく、またたいそうなようなことを
書きましたが、一会社員がたいそうなことを
言ってるなあ、と笑い飛ばしてもらえたら、
うれしいです。


1ヶ月前に植えられた苗たちも、
伸びてきました。
変わる苗、変わる空。
首を垂れる稲穂まで、あとすこし。

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