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能『邯鄲』 夢から目覚めて 

2月上旬、生涯の恩人 Y氏の夫君を訪ねた時の事だ。

30年ぶりの再会の時、私たちはお互いの容貌の変わりようにしばらく言葉を失った。知らない人を見るような困ったような顔。夫君は今年91歳を迎える。

2月の梅

かつて暮らした街並みはすっかり変わっていて、武蔵境駅南側に広がる果樹園だけが当時の雰囲気を残していた。かつてそこに日本を代表する絵画修復工房があったのだ。曖昧な記憶の底から小さな種を拾うように、二人で亡き人の思い出を語りあった。

その日の午後、銀座に向かった。コロナウイルス感染症が下火になって、3年ぶりGINZA SIXの地下3階観世能楽堂に足を運んだ。2月の観世会定期能である。

演目の一つ目は『梅』、そして二つ目はお目当て『邯鄲』だ。『邯鄲』の原典は中国文学『枕中記』、能作者は『太平記』巻二十五に引用されている物語から題材をとっている。人生に悩む青年が安宿でみる一炊の夢で、人生の栄華と歓楽がいかに儚く無常であるかを覚る物語である。

お能は動きがなくて退屈、眠くなってしまうとよく聞くけれど、『邯鄲』は<空下り>や<飛び寝>などの超絶身体能力を駆使した見所が満載であるうえに、夢と現実の切り替えが見事に構成されていて飽きることがない。『邯鄲』はこれまであまりお能に縁がなかった人でも楽しめる演目だといってよい。

この日シテ盧生を演じたのは上田公威。通常、盧生は黒頭というフサフサとした黒髪のかぶり物姿で登場することが多いが、この日は唐風頭巾を被っていた。面をつけるとくぐもった声になることが多いけれど、この日の盧生は声もよくとおり、はつらつとした好青年という印象だった。

一畳台の上 枕を前にした主人公盧生

『邯鄲』のあらすじ
旅の途中、主人公盧生は宿の女主人に勧められ、食事の支度の間不思議な枕を借りて一眠りすることにする。盧生は日々をなんとなくぼんやりと過ごしていて、そんな自分が不安でならない。盧生は楚の国にいるという尊い導師に教えを乞おうと旅に出たのである。

早速、盧生は身体を横たえて寝入ってしまう。すると間もなく枕元をパンパンと扇でたたいて起こす人がいる。そして帝王の位を譲られることになったと告げられるのである。夢の中で帝王に登った盧生はこの世の栄華の限りを味わい、舞童から不老長寿の仙酒をすすめられる。

春の花咲けば、紅葉も色濃く。夏かと思えば雪も降りて。四季折々は目の前にて。春夏秋冬萬木千草も。一日に花咲けり。面白や、不思議やな。

謡本『邯鄲』から

謡のなかのこの科白はとても魅力的だ。昼夜の区別がなく、四季の区別もない。有りと有らゆる享楽が一度に咲き誇る世界。夢のなかで不老不死の仙人帝王となった盧生は、歓喜の絶頂のなか楽(ガク)を舞う。

華やかな囃子と舞が目まぐるしく展開する絶頂のうち、突然「五十年の栄華も尽きて」シテは一畳台という寝床上に飛び込み(<飛び寝>)、元の寝姿にかえるのである。

能面 「邯鄲男」安土桃山時代 文化財オンラインより


「人生を夢とみる世界観は日本の人生観の一つの特徴である」

梅原猛は著書のなかでそう語る。室町時代は戦乱に明け暮れた時代。能『邯鄲』は室町時代の人生観を見事に語った能であるとも言っている。その影響が後の織田信長にもみられ、思い出されるのは、桶狭間の戦いに際してその出陣前に謡ったという幸若舞『敦盛』の一節である。織田信長が登場する歴史ドラマでは、必ずと言ってよいほどでてくる名場面だ。

人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。

夢からさめたあとの茫々然とした気分。

私はお能を観る数時間前の、夫君が見せたあの忘れ難い表情を、盧生に重ね合わせていた。


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