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根開け 春始動

日光で暖まった木々が雪を溶かす現象を「根開け」と呼ぶ。北国に暮らすものにとって春を迎える喜びは例えようがなく、豪雪に泣いた今年はなおさらだ。勤め先の建物から「根開け」を見つけて、その健気さに心を奪われた。

木々は厳しい寒さが緩んできたのを察知してか、地下に眠っていた根が一斉に目覚めて水を吸い上げる。それが木自体の温度上昇に関与しているとも聞く。目には見えない春の始動を「根開け」はそっと教えてくれる。

先週末に引っ越しの荷物を整理していたら、ひと昔前の新聞の切り抜き帳が出てきた。新聞を購読しない人が増えているというから、もはや「新聞の切り抜き」の意味さえ知らない人もいるだろう。情報収集はネット検索が今やあたり前だが、それまでは新聞が情報ソースだった。

その切り抜き帳に小野竹喬(おのちっきょう)の『宿雪』(しゅくせつ)という日本画の紹介記事が糊付けされていて、思わず目が留まった。日付を見ると2010年4月1日付けの朝日新聞で、ちょうど12年前ではないか。その頃私は美術の専門高校で教鞭をとっていて、仕事にやりがいも感じていたが身体を酷使し続けてついに倒れた。眠ることも食べることもできなくなって、翌年には長期の病気休業に入った。

「美の履歴書」というタイトルがつけられていたその茶褐色の紙片には、雪解けのにおいがするような早春の景色があった。根開けという言葉を知らなかったこの頃、私は生まれ変わったら木になりたいと、ぼんやり願っていたように思う。

あの頃、記憶を辿ろうとしても思い出せない空白の時期に、この記事を見て美しいと思い「切り抜き」をしたという事実を、今は愛おしく感じている。

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    『宿雪』部分 138×92cm  紙本着色 1966年
                 (株)ベネッセコーポレーション蔵 
       (『現代日本画全集3 小野竹喬』 集英社 より)

本棚から画集を引っ張り出して、改めて大判の図版で『宿雪』を眺めてみることにした。この作品に描かれているのは節くれだった老木でも圧倒するような大木でもなくて、細長い数本の若木だ。その幹の縦長の線と銀白色の雪原に開けられた「根開け」のへこみがリズミカルである。灰褐色の木々に混じって黄緑色やオレンジ色の木も描かれていて、画面に軽さと晴朗な感じを与えている。細い枝は雪の重みを受けてたわんでいるが、やがて若々しい力で跳ねのけて新緑を茂らせるだろう。

一切諸樹 上中下等 
称其大小 各得成長 根茎枝葉 華果光色
一雨所及 皆得鮮沢

一切の諸樹 上中下等しく
その大小に称えて 各成長することを得
根茎枝葉 華果光色
一雨の及ぼす所 皆鮮沢することを得
                (「妙法蓮華経薬草喩品第五」 より)

作者の小野竹喬(1889~1979)はこの作品を77歳の時に描いた。四季折々に表情を変える木を飽かず眺めて暮らしながら、いつも自然に身を置いて描き続けたという。中でも『宿雪』は穏やかながらも若木の姿の清々しさや生命の蠢きが満ちていて、観るものに生きていく勇気を与えてくれる。

葉を落とした木でなければ表せない美しさがある。いつの日かこの作品の前に立つことがささやかな希望となった。




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