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コントラクトブリッジの歴史をまとめてみた③<コントラクトブリッジの流行〜エリー・カルバートソンの活躍など>

「コントラクトブリッジの歴史をまとめてみた」シリーズの3回目です。前回は、ブリッジの祖先に当たるゲーム「ホイスト」の派生ゲームからコントラクトブリッジが誕生するまでの流れを概観しました。今回は、1925年にコントラクトブリッジが誕生してから20世紀中頃までを見ていきますー。
(第一回と第二回の記事はこちら↓)

コントラクトブリッジの誕生と流行(1925〜)

前回の記事でも述べた通り、コントラクトブリッジはアメリカのハロルド・バンダービルトによって前身となる「オークションブリッジ」のルールが改良され、1925年に誕生しました。コントラクトブリッジは登場するやいなや、それより前の時代に流行していたホイストやオークションブリッジに取って代わる人気ゲームとなり、「ブリッジ」といえばコントラクトブリッジを指すようになっていきました。

エリー・カルバートソンと『The Bridge World』(1929)、「世紀の一戦」(1931)

そして、このコントラクトブリッジブームの立役者とも言える人物がエリー・カルバートソン(Ely Culbertson, 1891–1955)です。彼はアメリカ人の父とロシア人の母の間に生まれ、大変な勉強家で語学に堪能でした。学生時代にはヨーロッパで政治・経済を学びながらロシア革命に参加しましたが、その後無一文になり、カードゲームの賞金稼ぎで生計を立てていました。

第一次世界対戦後、ニューヨークに移ったエリーはブリッジ教師のジョセフィン・マーフィー・ディロンと結婚。そして、コントラクトブリッジが流行し始めると数々のトーナメントで勝利し、コントラクトブリッジの有力者として頭角を現すようになります。
さらにエリーはコントラクトブリッジの専門雑誌『The Bridge World』(1929〜)の創刊や、ブリッジの著作を次々と出版したことによって、自身の知名度を高め、莫大な利益を生み出しました。また、ブリッジ指導者の組織化にも取り組むなど、エリーの様々な活動のおかげで、コントラクトブリッジの人気はより一層高まりました。

しかし、そんなエリーの活躍を快く思わない人たちもいました。それは、ホイストやオークションブリッジが流行している頃から活動しているベテランのブリッジプレイヤーたちです。エリーの雑誌や著作によって「カルバートソンシステム」と呼ばれるブリッジのプレイスタイルが世界的に広まっていましたが、ベテランプレイヤーたちはこれに対抗して「オフィシャルシステム」というシステムを開発します。そして、この二つのシステムのどちらが優れているかを競うコンテストが行われることになりました。
1931年12月から1932年1月にかけて行われたこの戦いは『The Bridge World』や一般の新聞でも報道され、「世紀の一戦」として今でも語り継がれるほどの歴史的な戦いとなりました。

こちらの動画はその時の様子の一部です。動画に写っているのはエリーと妻のジョセフィン、対戦相手のシドニー・レンツとパートナーのオズワルド・ジャコビーです。この勝負にエリーは勝利し、ブリッジ界におけるエリーの地位を確固たるものとしたのです。
(なお、シドニー・レンツと「世紀の一戦」については過去に記事を書きましたので興味のある方はどうぞ。)

余談ですが、過去記事にも書いた通り、コントラクトブリッジの愛好者として知られるアメリカの有名投資家ウォーレン・バフェット(1930-)がブリッジを始めるきっかけとなったのは幼少期に読んだ『Contract Bridge Complete: The New Gold Book of Bidding and Play』(1936)というエリーの著作だったそうです。また、日本でもベストセラーとなったデール・カーネギー(1888-1955)の自己啓発書『人を動かす』(1936)にもエリーのことを引き合いに出した記述があります。どちらの本も1936年出版ということですが、1930年代といえば「コントラクトブリッジとエリー・カルバートソン」の時代だったのかもしれません。
(さらに余談ですが、コントラクトブリッジが出てくる小説として世界で一番有名であろう、アガサ・クリスティーの『ひらいたトランプ』も1936年の刊行です!)

コントラクトブリッジの組織や連盟の結成(1920年代末、1930年代〜)

第一回、二回の記事で、ホイストの派生ゲームがいくつも生まれた後に、現在のコントラクトブリッジが誕生したという話を書きました。これは、ある意味でホイストをルーツに持つゲームの「改良」の歴史でもあったわけですが、様々な地域で次々と新しい「改良」が考案され、異なるゲームが誕生してしまうため、世界的にルールが統一されたゲームがなかなか登場しませんでした。しかし、コントラクトブリッジは誰もが認めるゲームとなり、世界各国でルールが共通のものとなりました。
こうしてコントラクトブリッジが国際的に流行すると、アメリカとヨーロッパの各地でブリッジの競技団体が相次いで設立され、国別対抗試合が行われるようになりました。
その後は第二次世界大戦が始まり、ブリッジの組織的な活動は世界的に停滞しますが、戦後になると再びブリッジの活動が盛り上がりを見せるのです…

というわけで、今回は20世紀前半のコントラクトブリッジの歴史をかいつまんでご紹介しました。コントラクトブリッジについて調べる中で「ブリッジが一番熱かった時代は1930年代あたりだろうなー」などと個人的に思っているので、この辺りの時代はさらに調査をしていきたいと思っています。
次回は、戦後のブリッジブームやブリッジ界の活動について記事を書こうと思っていますーではー。

サポートはコントラクトブリッジに関する記事執筆のための調査費用、コーヒー代として活用させていただきますー。