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「世紀の一戦」を演じたブリッジ黎明期の有名プレイヤー シドニー・レンツ

コントラクトブリッジの歴史の中で、「ブリッジの世紀の一戦」と呼ばれる有名なブリッジの試合があったことをご存知でしょうか。過去の記事でも紹介したことがありますが、これはブリッジ界に大きな貢献を果たしたエリー・カルバートソン(1891–1955)と今回ご紹介するシドニー・レンツ(1873–1960)というブリッジプレイヤーの戦いでした。1931年12月から1932年1月にかけて行われたこの戦いは世界中に報道されるほどの話題を呼びました。

この試合がいまだに語り継がれるのは、コントラクトブリッジ黎明期にブリッジを研究していた二人が、自らが支持するブリッジのシステムを使ってその優位性を競い合う、いわばブリッジ界の「覇権争い」をする試合であったからでしょう。

この試合で勝利したのはエリー・カルバートソンでした。それもあってシドニー・レンツの名前は影に隠れがちなのですが、今回は彼がどんな人物であったのかを見ていきたいと思います。


シドニー・レンツ(Sidney Samuel Lenz)はアメリカ・シカゴの出身です。若くしてビジネスで成功し、30歳でリタイア(今風の言葉で言うとまさにFIREですかね)すると、趣味の活動に専念するようになります。

シドニーはボウリング、チェス、テニス、ゴルフ、卓球といったゲームやスポーツ、そしてマジック(手品)に取り組んでいたそうですが、とりわけ熱中したのが「ホイスト」(ブリッジの前身となるゲーム)でした。1909年にホイストを始めると、たちまち実力をつけ、600以上ものホイストやブリッジの大会で勝利を収めたそうです。さらにホイストやブリッジの著作も数多く残しました。

1925年にコントラクトブリッジが成立するとシドニーもコントラクトブリッジに取り組みますが、そこへ登場したのがエリー・カルバートソンでした。エリーは「カルバートソンシステム」と呼ばれるブリッジのプレイスタイルを考案。すると、それは多くの人に知られるものとなり、世界中に広まっていきました。しかし、「カルバートソンシステム」は一部のベテランプレイヤーたちには受け入れられるものではありませんでした。そして、シドニー・レンツはそのベテラン勢のうちの一人でした。

シドニーたちは「カルバートソンシステム」に対抗すべく、「オフィシャルシステム(the Official System)」を開発。そして、この二つのシステムのどちらが優れているのかコンテストを行うことになったのです。

こちらの動画はこの「世紀の一戦」の様子の一部を映したものです。奥側左がシドニー・レンツで奥側右がエリーです。(エリーのパートナーは妻のジョセフィンで、シドニーのパートナーはオズワルド・ジャコビー。)

試合の結果はエリーの勝利となりましたが、シドニーもブリッジの技術研究に貢献した人物としてブリッジの歴史にその名を残すことになりました。シドニーはこの「オフィシャルシステム」以外にも様々なブリッジのプレイスタイルの提案を行っていました。今では使われていないものも多いようですが、「スクイズ」というプレイ技法の名付け親はシドニーと言われているそうです。(語源は野球の「スクイズ」と同じ「squeeze」。)

というわけで、今回はブリッジプレイヤーのシドニー・レンツのご紹介でした。コントラクトブリッジが登場する前からホイストやオークションブリッジの強豪として名を馳せていたベテランのシドニーと、コントラクトブリッジの革新的なスタイルを発表しブリッジ界を席巻したエリーはまさに対照的な存在だったのでしょう。こういうストーリーを知ると、ブリッジの楽しみ方もまた違ってくるのではないでしょうか。とても面白い話なので映画化・ドラマ化されることを祈っておりますーではー。

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