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夜の散歩と『モモ』に学ぶ「ぼんやり」礼賛

忙しい日々を送っていると、休日を、というより時間を無駄にしたくないという気持ちが強くなってくる。せっかくの休日をだらだらゴロゴロしているだけで終わらせるのはもったいない。どこかに出かけようとか、建設的な何かを始めようと考え出す。そのくせ布団の中でいつまでもスマホをいじっていて、いつの間にか昼になっていたりするから始末に終えない。

学生時代、長い夏休み。暇を持て余して無意味でくだらないことばかりしていた頃を振り返る。なんて雑な時間の使い方をしていただろうと思う。同時にしかし待てよ、それでもああいう時間は楽しかったなぁとも気づく。

深夜、別世界のようになった商店街を散歩しながらコンビニに行ったことがあった。お金は慢性的にない。車止めに腰掛けながら、ガリガリ君をわざとゆっくり食べた。帰り道は神社、公園と寄り道に継ぐ寄り道。疲れたので川沿いの階段で休んでいった。

なんという無駄な時間の使い方。アイスが食べたいなら、車を出せばすぐだ。これらの行程をすべて省いて、コンビニでアイスを買ってきた、の一言で済ませることができる。

しかし、そんな他愛もない散歩の風景に色があり、風があった。時間がゆっくり流れているのを肌で感じた。楽しさの瞬間的な風力は弱くても、日々の喧騒で煮詰まり淀んだ心を流す風が吹いていた。当時は楽しみとしてやっていた感覚がなかったから不思議だ。

ゆえに一度無くしてしまうと、それの大切さになかなか気づけない。意味や必要性、メリット、効率などを考えたら真っ先に切り捨てられる時間だからだ。何もせずゆっくりしていることに罪悪感や焦りを感じるようなら重症だ。

ミヒャエル・エンデの『モモ』は、牧歌的に生きていた人たちのところに時間泥棒が現れる物語だ。無駄な時間を省いて貯金することで有意義で効率的な生活を送れると意気込んだ人たち。だが無駄を省こうとするほど時間に追われるようになり、次第に心の余裕をなくしていった。

モモは人々を助けるために時間泥棒に立ち向かった。物語のナビゲーターを務める相棒は「ゆっくり」の象徴ともいえる亀のカシオペイア。効率主義、成果主義一辺倒になることに警鐘を鳴らした物語は、近年ますます評価を上げている。

youtubeのおすすめ動画に、湯治をする人が増えているというニュースが流れてきた(日テレNEWS)。湯治と聞くと病人や怪我人の療養が目的のイメージがあったが、ここでいう湯治とは観光をせずに終日旅館でゆっくり過ごすことを指している。旅館大沼の湯守である大沼さんは「昔は農家の人が湯治に来ると、温泉に入るか寝るかのどちらかしかしていなかった。最近はそれが心身を復活させる鍵だということがわかってきた」と話す。サークル活動で湯治に来ていた大学生が、デジタルデトックスとして自主的にスマホから離れる時間を作っていたのが印象的だった。

誰もがポケットに小さな時間泥棒を飼っている現代。自分の時間は自分で取り戻すしかない。

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