ブリックヴィンケルとしての谷山浩子

自分のブログ記事からの転載です


大好きな谷山浩子の楽曲を紹介。「カイの迷宮」「七角錐の少女」をメインに彼女の世界観の土台について述べる。

カイの迷宮。この曲というかこの曲が入っているアルバムは雪の女王という作品をモデルにして作られたらしい。この歌に登場するカイは主人公ゲルダと大の仲良しだったが、ある日悪魔の鏡がカイの心と目に突き刺さり冷たい性格へと豹変したうえ、雪の女王に魅入られるように連れ去られてしまうらしい。
フムフム、悲しそうなお話ですなあ。

正直自分がこの曲を聴いてしみじみと凄い歌だと思った際、この曲にモチーフがあることは知らなかった。ただただ主人公カイの感じた「次元を超えた悲しみ」を謳った歌詞に心を打たれた。谷山浩子をはじめ数多くの歌手のレビューをなされているまこりんさんのブログにあった文章を借りるなら、この曲は『孤独や切なさをただそのまま描くのでなく、今と過去が交錯するような立体的で客観的な広がりのある視線でもって描いているように見える。寂寥感がひしひしと伝わる』。本当にその通りだと思う。今回書きたいのはまさにその視線、さらに言えばその視点のお話なのだ。どういうことか説明していこう。

孤独とは何か。それはコミュニケーションの断絶だ。我々が他者とコミュニケーションをとる際、重要なのはお互いが様々な意味で同じレベルにいる、ということである。同じレベル(空間、時間、言語、思考の枠組み、その成熟度・・・)にあるからこそ、お互い議論したり、あるいは相手を思いやったりすることができるのだ。だからこそ人は人を嫌いになったり、あるいは好きになったりできるのだ。故に同じレベルに互いが存在している限り、彼らは孤独ではない。もし孤独を感じても同じレベルを歩き回れば必ず他の存在に出会えるだろう。レベルが異なる場合が問題なのだ。

ここでカイの迷宮の歌詞の一部を見てみよう。カイが変わり果てた存在になってしまうシーンと思しき個所の歌詞である。

鏡はかけらに 体は粒子に
心は言葉に こまかく割れていく

面だったものが点に、複雑だった構造物が単純な影に・・・もともといた世界が三次元空間とするならば(こんな切り口を好まないファンの方もいると思うので、ここではあくまで例えだが)、カイは二次元の存在へと変わってしまうのだ。
そしてアウトロ。

そして僕は ひとりになって
忘れたことさえ 忘れてしまった
そして僕は ひとりになって
雪の底で 白い夢を見てる

そして僕は ひとりになって
忘れたことさえ 忘れてしまった
僕のすみかは 氷の下
誰か僕を 僕を見つけてくれ

カイは雪の底、氷の下から元居た世界を見上げている。XY平面上の点が三次元座標に決して届かないように、彼もまた他者と交わることはない。

これが谷山浩子の歌うカイの孤独である。これこそがカイの迷宮なのだ。

以前、谷山浩子はこう述べたそうだ(またしてもまこりんさんのブログより引用)。
日常生活のレベルでは決して恋は芽生えない、芽生えたとあなたがそう思ったとしても、それはただの、肉欲を伴った友情・同情のようなものでしかない。非日常の時間・空間でしか、本当の恋は生まれない。
つまり彼女は両者のレベルが異なるからこそ本当の恋が生まれると言っているのだ。

他者と次元が異なるが故に感じる孤独。これこそが愛を生むのだと言っているのである。愛と孤独は表裏一体の存在だったのだ。だからこそカイとゲルダの物語は美しいものとして後世に伝わっているのかもしれない。この構図は谷山浩子の歌に非常に多い。今思いついたところだとKARA-KURI-DOLL~Wendy Dewのありふれた失恋~なんて曲もそうだ。人間と人形の愛が美しいのであって、その人形が人間になってしまってはその愛は破綻するという・・・。

この次元を超えた愛についてもうまさに位相幾何学的に歌っているのが紹介するもう一つの名曲「七角錐の少女」である。

完全な円錐の形したきみの家
透きとおる藍色の夜空めざし のびていく

(中略)

僕は今歩いてる 君の家につづく道
完全な直線の 幅のないこの道を
歩いても歩いても たどりつけぬきみの家
時は白く凍り付き 距離は無限の罠の中

この曲は城に住む少女に恋焦がれる少年の気持ちを歌ったものだろう。XY平面から見上げる少女がどんどん手の届かない存在になっていくということが、垂直に伸びる城(少女)と少年の位置関係にうまく例えられながら静かに歌い上げられている。少年はZ軸方向に移動する手段を持たない。だから歩いても歩いても少女にたどり着くことはないのだ。
そしてアウトロ。

歩いても歩いても たどりつけぬきみの家
愛してる 愛してる 泣きながら僕は呼ぶ
叫んでも 叫んでも 届かない僕の声
愛してる 愛してる 泣きながら僕は呼ぶ

改めてこの曲でも孤独と愛が表裏一体であることがよくわかる。個人的に好きなのはそれまで冷静、客観的に状況を説明していた僕(少年)が、ここにきて自分の心情を吐露しているところである。この次元が異なることによる取り返しのつかない孤独が体現されているようで、非常に胸にしみいる。カイの迷宮でもそうなのだが、この曲もまた前回の犬を捨てに行くで述べたようにギターの荒ぶりが琴線に触れる。そういえばその記事で触れていた電波塔の少年もまさにこの切り口の孤独と愛の歌なんだなあ。

さて、ここまで谷山浩子の曲の内容について異なる次元からの視点というテーマで述べてきたが、実はこの考えは谷山浩子自身の創作にも当てはまると思う。表題もそれを意味するところである。

谷山浩子は面白い歌手だ。人の底知れない憎悪を歌うこともあれば、無償の愛について歌うこともある。同じファンでも人によって好きな曲が異なり、曲調もフォークからプログレに至るまで多種多様で一見したところ統一性がない。

突然だが次の文章を読んでほしい。

n次元の世界を認識するにはn+1次元の視点が必要
3次元上に存在する我々は2次元的視点しか持ちえない。3次元を知覚していると感じるのは両眼視による視差からの立体感の推定と、置いてあるサイコロの見えない面を考えるような推測で補うことで疑似的に3次元的知覚を構築しているからである。4次元時空を自由に移動できる存在ならばサイコロのすべての面を同時に見ることができるような3次元的な視点を有している。
そしてこのような4次元時空を自由に移動できる存在をブリックヴィンケルと呼ぶ。
(補足2)

さて、ここまで読んで気を付けてほしいのは別に谷山浩子が時空間を超えた神様のような存在だという宗教染みたことを言いたいわけではないということだ。

ただ、彼女の創作、もっと言えば世界観はこのような視点に基づくものではないかと思う。二度あることは三度ある、改めてまこりんさんのブログの文章の一部を転載させていただく。

M :まぁでも、「王国」「Elfin」「気づかれてはいけない」「時計館の殺人」は同じ世界を歌った歌だと――。
T :え…。
M :四つで一つの物語になっていると、谷山さんいうてますので。
T :そうだったんですか……。
M :そうみたいよ
T :全然別の話じゃん!
M :作者がそういってるんだからっっっ!
T :パラレルワールド連作って感じですかね?
M :同じ世界を違う切り口で見ると――っていうそんな感じっぽいよ。
T :藤子・F・不二雄先生の世界と共通するところがありますね。世界を切り取って別の切り口で見るって、F先生の得意技ですし。
M :時計という罠にはめられて時間の牢獄から出ることの出来なくなった恋人たちの歌みたいです。

思うに、彼女は箱庭のように幾つもの「三次元の物語世界」を持っていて、それを様々な切り口でカットすることで見えてくる「二次元平面」を歌にしているではないのだろうか。そしてその「三次元の物語世界」達を俯瞰して眺めている、それらを好きな切り口で切りだすことのできる存在――ブリックヴィンケル――が谷山浩子なのだ。そう考えると、彼女の一見すると難解でバラバラな曲が一つの線でつながる(気がする)。少なくとも、そのような世界観を持ち、その世界に対し様々な切り口を持つことが、楽曲数が膨大でもあるにかかわらずそのどれもが色褪せず、内容がマンネリ化せず、ジャンルに富んでいることの要因になっていることは想像に難くない。言わずもがな、彼女の45年以上にわたる創作活動(音楽にとどまらず著作や劇にも携わっている)が続いている理由の一つであると思う。一見ばらばらで難解な楽曲だが、一貫した世界観が厳然と存在するのである。
(※ここでいう3次元というのは当然比喩で、他の多くの二次元的な世界観をもとにした創作からの脱却、まこりんさんの言葉でいうなら冒頭で引用した『立体的で客観的な広がりのある視線』という意味で用いている)
先ほど谷山浩子は面白い歌手だ云々と書いたが、以下のように訂正させていただく。

谷山浩子は天才だ。人の底知れない憎悪を歌うこともあれば、無償の愛について歌うこともある。矛盾しているのではない。その矛盾が起きるレベルを俯瞰できる視点に谷山浩子は立っているのである。Z軸上から見ればXY軸上に描かれた図案が見渡せるように、彼女は三次元空間を見下ろすブリックヴィンケルの視線から曲を作っているのだ。

裏付けるかのように谷山浩子の楽曲には神の視点から歌われている曲が多数存在する。名前もそのまま、「神様」の歌詞を引用する。

日暮れの雨に濡れている
わたしをわたしがみつめてる
どこから来たの どこへ行くの
その先どこへ帰るの

(中略)

わたしを見てるそのわたしを
誰かが黙ってみつめてる
ほんとの名前知らないけど
たとえばそれは神様

見られている側の視点から歌われているのも注目すべき面白さである。虚構の中に存在している主人公が第四の壁を越えてプレイヤーである我々を認識するといういわゆるメタ構図は小説、ADVや映画では一般的であるものの音楽ではなかなか見ないのではないだろうか。

最後にカイの迷宮の歌詞の一部抜粋を見て閉めようと思います。

世界が 僕の目の前で
ひらけていく 色鮮やかに
世界が 僕に告げていた
さあ その手でわたしをつかめと

うーむ自分もこの視点に立ちたいものだ。

補足1
ちなみに、七角錐の少女について調べてみると位相幾何学の観点からこの歌について考察しているページも存在している(文字化けしてたらキャッシュで読めます)。面白いのはそのサイトでも谷山浩子がこの世界が11次元だと見通していると書かれていることで、不思議とこの記事にリンクしてくる内容なのである。切り口は違えど本質は同じ。

補足2
ブリックヴィンケルやn+1次元の文章に興味を持った方へ。これはEver17というゲームからの引用です。インターネットにはネタバレがあふれているので興味持った方は何も調べずに買ってください。PC版なら1500円くらいで買えると思います。これやってからこのエントリーを読むとまた違った思いになること請け合いです。

補足3
次元を超えて伝わるものが愛・・・という谷山浩子の一貫したメッセージは、突飛なようでいて意外と普遍的なメッセージなのかもしれない。『インターステラー』でもそうだったし上のゲームやった人ならああーってなると思うし。そして孤独を感じている人に対し谷山浩子なりの時空を超えた愛を送る歌というのが離れていても人は繋がっているという歌の記事で述べたような楽曲なのである。ウーム少しずつ世界が広がってきた気がするぞ。

ここまで読んでくださってありがとうございました。個人の意見なので様々な意見があると思います。勉強不足のところがあったらそっと教えてください。

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