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幼い頃の特別な場所と、私の個人主義

子供の頃、どちらかと言えば外で身体を動かすより、家で音楽を聞いたり料理の手伝いをしたり部屋をデコレートしたりすることのほうが好きだった私には、
家の中に少し特別な場所があった。
片田舎のだだっ広い家屋の中、母の寝室の隣にある支度部屋(とでも言うのか、6畳ほどの謎のスペース)にある、母の本棚だった。
母は当時の田舎娘としてはやや珍しく、地元の公立高校を卒業後東京都内のとある私立大に入学し、そこで国文学を専攻していた元文学少女だった。

だから母の本棚には色んな著書があった。幼い私はその本棚から適当に文庫を取り出したり、眺めたりするのが好きだった。
ドストエフスキー、森鴎外、トーマスマン、カミュ、この辺は当時の私には難しすぎてさっぱり分からず読めなかった。
背伸びして小林秀雄を読んだこともあったが、何だか意地悪で難しい文章だと感じた。恐る恐る手にした安部公房の小説を読み耽り、気づいたら一睡もせずに朝を迎えて絶望したこともある。
北杜夫や吉本ばなな、赤川次郎、この辺なら私にもあまり苦労せず読めたし、ビートたけしや松本人志のエッセイなど砕けた本も幾らかあった。
その中で、私の物事の考え方を決定付けた本があった。夏目漱石の"私の個人主義"だ。
小説ではなく、漱石が学習院大学の講堂で学生達に対して行った講演を文章にしたもので、数十頁で終わるためとても読みやすい。

構成は、
・自分の半生の振り返りと、自分を再起させた"自分本位"という考え方
・人格と権利、義務について
・自己と国家について
という感じにまとめることができる。
要は、
・他人の受売りばかりしていては虚しい、人生の目的は自分の成すべきことを見定めそれに邁進することだ
・自分の権利を主張する以上は他者の権利を鑑みるべきだし、権力を得る人間はそれに値する人格が備わっているべきだ
・個人主義は国家や党派より尊い
と言った主張が述べられている。一つ一つはそんなに特別なものでは無いし、うんうんと納得しながら読むことができる。
その中で、個人主義者とは異質な国家主義者をこんな風に表現している

国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。
豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。
根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。
これと同じ事で、今日の午に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に殖やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。
正直に云えば胃の具合できめたのである。
略 国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。

痛快な表現だ。
他にも


ただもう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。
元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。
だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘あまんじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。
だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます

時代を鑑みても、ここまではっきり国家より個人を優先と言い切れるのは凄いと思う、それとも当講演が行われた大正3年、日本はもっともっと想像よりおおらかだったのだろうか。
分断、全体主義が世の中を覆いつつある今、この本を今振り返ることは、かなり重要だと思われる。
今で言う"ネトウヨ"的な存在を痛烈に批判する箇所も登場する。
そのことについては、別の投稿で触れたい。

とにかく、早いうちに個人主義という考え方に触れた自分は、結果的に全体主義というものを敵視するように育った。
制服、髪型の規定、先生が喋り続ける授業のスタイルそのもの、そうしたことも好きになれなかった。
それが良かったのかどうかは分からない。但し反差別、反同調圧力、反固定観念の波がゆるやかに流れて来ていると感じる今、明治の文豪が語った個人主義にもう一度寄り添ってみるのも良いかも知れない。