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愛国心と三島由紀夫について

愛国心という言葉を初めて意識したのがいつだったかは思い出せない。
しかし、この10数年来"愛国心の有無"がやたらと話題に上がるようになった気がする。第一次安倍政権が"愛国心教育"の方向性を打ち出したことと無関係では無いのかも知れない。
歴史認識と教科書問題の議論においても、愛国心というものを教育として教えるべきかどうかは常に議論になる。
明仁上皇が"国歌や国旗の掲揚は強制でないことが望ましい"と発言したのは多分小泉政権の頃だ、当時の私はあまり関心のないテーマだったけど、何かこの発言について色々議論をしていた人達がいた記憶がある。

海外を例に挙げて"日本は愛国心をきちんと教えなければならない!"という意見を見ることもよくある。
─愛国心 この言葉は一体どんな意味なのだろう、果たして国民の誰もが持ち合わせなければならないものなのだろうか。

私はこの言葉がかなり苦手だが、苦手な理由を明確にするのは難しい。
そもそも私は愛国心の持ち主なのだろうか?
日本という国が好きかと聞かれれば、好きな所も嫌いな所もたくさんある、としか答えられない。
治安の良さ、清潔さ、人と人との距離感など、好きだなと思う部分は沢山ある。
同時に、同調圧力、古臭い価値観、やや排他的な風潮など、苦手な部分もある。
果たして私は日本という国が好きなのだろうか?

そもそも、国を好き という状態がいまいち理解できない。
その愛の対象はその国特有の文化や風土なのか?それとも国民性だろうか?
はたまた国家体制や外交における日本の立場だろうか?
"外国人に日本が人気だ"という記事を読んで得意になることは、愛国心があるからなのだろうか。よく分からない。

このモヤっとした感覚はうまく言語化できないものだと諦めていたが、ふとしたきっかけで三島由紀夫の愛国心に関する文章を読み、これだ!と思ったことがある。
三島と言えば戦後右派の代表のような存在だ、そんな彼が"愛国心といふ言葉があまり好きではない"という考えを持っていたことに、私は驚いた。
同時にその小気味よい的確な表現に膝を打った。
その文章は、1968年、氏の朝日新聞への寄稿だったようだ。
冒頭部分から抜粋してみる
https://plaza.rakuten.co.jp/azabird/diary/201112150001/

実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、
一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

どうだろうか。この文章を読んで私はそれ!それが言いたかった!と妙に興奮してしまった。

自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に
対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

この部分に全てが詰まってると思われる。
幾ら日本が苦手だと叫んでみようが、仮に国を出ようが、国籍を変更しない限りは私達は日本人であり(それにしたって日本人であった自分が消えてなくなるわけではない)
それは逃れようが無く、自分で選択したものでも無い。 
そうである以上、好きとか嫌い という感情にはあまり適さず、ずっとついてまわるもの 受け入れざるを得ないもの 腐れ縁のようなもの しかし、時には居心地の良さも感じるもの という感覚の方がしっくりくる。

自分から決して切り離せない要素であるにも関わらず、まるで飾ってある一枚の絵のように国というものを取り出し、"愛しなさい"と押し付けられることに、違和感を感じずにいられないのだ。
そこには、芝居っぽさ、ナルシシズム、わざとらしさ、小恥ずかしさ、をどうしても感じてしまう。
どうもさっぱりしない、爽やかでない感覚、概念なのだ。

だから私は、もし質問されることがあったとしても、三島の言葉を借りて堂々と答えようと思う
"私は「愛国心」という言葉があまり好きではない" と。

※猫画像は内容に特に関係しません。トラ猫が好きなだけです