アナログ派の愉しみ/本◎マキアヴェリ著『君主論』

そこからわれわれは
何を読み取ればいいのか?


マキアヴェリズムの聖典『君主論』は、フィレンツェの書記官だったニッコロ・マキアヴェリが政争に巻き込まれて失脚したのち、隠遁生活を送りながら半年ほどで書き上げたという。長年にわたり権謀術数渦巻く政界に身を置いた経験から、国家の支配者が心得るべき冷徹な処世術を指南したもので、メディチ家の若い当主ロレンツォ二世に献呈されており、そこに就職活動の企図があったことも不思議ではない。しかし、いかにも不思議なのは、マキアヴェリが没してわずか5年後、1532年にローマとフィレンツェで相次いで出版されて世間への流布がはじまったことだ。

 
だって、そうだろう。君主のためのせっかくの奥義がハウツー本として、だれでも知るところとなったら大方の効用を失ってしまうではないか。たとえば、そこにはつぎのような記述があるのだ。

 
「これにつけても覚えておきたいのは、民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないようにやらなければならない」(池田廉訳)

 
こんな教訓も白日の下にさらされてしまえば笑い話でしかない。その一方で、グーテンベルクが活版印刷を発明して100年足らず、もっぱら聖書の普及に奉仕してきた技術を使って、こうした文章が跳梁跋扈することにカトリック教会の聖職者から非難の声が湧き起こったのも当然と思われる。だが、そうした宗教界の圧力も跳ねのけて、この書物が世間に受け入れられた理由はひとつしか考えられない。すなわち、マキアヴェリの趣旨とは反対に、君主ではなく、君主に支配される側がかれの行動原理を知ってあしらうために役立ったからだ。同じフィレンツェに「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチも出現したルネサンスとは、こうした一般大衆のエネルギーを解き放ったのだろう。

 
そして、そのエネルギーはやがて国境や時代を超えて、『君主論』は古典の地位を獲得していく。はるかな後世のわれわれもまた、小は職場の上司から大は国家の統治者まで、知らず知らずのうちに対処の仕方を学んできたのに違いない。そうした観点からいくつか箴言をピックアップして、わたしなりのコメントを添えてみよう。

 
「心に留めるべきは、ある国を奪いとるとき、征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気呵成におこない、日々それを蒸し返さないことだ。〔中略〕そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の憾みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない」 → かれらは突如、権力の刃を突きつけてくる。したがって、われわれはつねに身構えて、一時の甘言にも決して気を許してはならない。

 
「総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。なぜなら、見るのは誰にでもできるが、じかに触れるのは少数の人にしか許されないからだ。〔中略〕大衆はつねに、外見だけを見て、また出来事の結果で判断してしまうものだ。しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。大多数の人が拠りどころをもってしまえば、少数の者がそこに割りこむ余地はない」 → だから、かれらはひたすら外見を装う。しきりに笑顔を振り撒きながら、たいていの場合、目が笑っていないのはそのせいだ。

 
「運命は変化するものである。〔中略〕わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。要するに運命は、女性に似てつねに若者の友である。若者は思慮を欠いて、あらあらしく、いたって大胆に女を支配するものだ」 → この指摘ばかりは、かれらだけでなくわれわれにも当てはまろう。そして、しばしば女神から手痛いしっぺ返しを食らうのも同じだ。

 
目下、世界じゅうに芬々とキナ臭さが充満し、各国の支配者・指導者の振る舞いによって人類の運命が大きく左右されそうな気配をだれもが感じ取っているのではないか。であるなら、われわれはいっそう、かれらの思惑を見抜き動向を監視していく態度が求められるだろう。そうした意味で、500年前にマキアヴェリが心血を注いだ『君主論』は、今日においてなおアクチュアルな存在感を発揮しているのである。

 

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