アナログ派の愉しみ/映画◎ルネ・クレマン監督『禁じられた遊び』
少女ポーレットの場合、
青年トムの場合
永遠の名作、といった決まり文句で真っ先に思いつく映画のひとつが『禁じられた遊び』(1952年)ではないか。これまで、一体、日本でもどのくらいのひとが観てきたのだろう。たとえ観ていなくても、ある程度の年齢でこの作品の存在を知らないというひとがいるものだろうか。また、ナルシソ・イエペスのギター演奏によるテーマ曲を、これまで一度も耳にしたことのないひとが果たしているのかどうか。
まさしく定番中の定番のタイトルだけに、そこにべったりと貼りつけられた「反戦映画」のレッテルがかえって作品の鑑賞を窮屈にしてしまっている気もする。第一、監督のルネ・クレマンと言えば、のちに退廃的な犯罪映画『太陽がいっぱい』(1960年)でふたたび永遠の名作をものしているのだから、そうそうひと筋縄ではいくまい。
『禁じられた遊び』が「反戦映画」とされるのは、冒頭で少女ポーレット(ブリジット・フォッセー)の両親と愛犬が、パリからの疎開の途中、ドイツ軍機の機銃掃射に殺害されるからだろう。それはむろん理不尽な悲劇ではあるけれど、仮に戦争が原因ではなく、交通事故やゆきずりの殺人、ないしは自然災害などによる不慮の死だったとしても、ストーリーの枠組みは変わらない。両親より愛犬の死のほうに心を痛めるポーレットが、南仏の田舎で少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)と出会い、その家族のもとで過ごしながら、ふたりで教会や墓地から盗んだ十字架で愛犬のための秘密の墓場をつくり、やがて赤十字に引き取られるまでのつかのまの叙事詩――。
ラストシーンでは、孤児院へ送られようとする喧騒のなか、ポーレットは泣きながらミシェルの名を連呼し、その口がふと「ママン」と洩らす。母の死をようやく受け入れた瞬間だろう。無邪気なお墓づくりで死をもてあそび、そのシッペ返しを食らうようにして、現実の死が胃の腑に落ちたのだ。少女はこの先、悲しみの道程を歩みながら、それを乗り越えて、新たな未来へと向かっていくことを予感させて、映画は結ばれる。
『太陽がいっぱい』では、青年トム(アラン・ドロン)が裕福な友人フィリップ(モーリス・ロネ)を殺害し、相手になりすまして財産を手に入れようと目論む。そして、完全犯罪のゲームをとおして死をもてあそんでいるうちに、同じくシッペ返しを食らい、現実の死が眼前に突きつけられて終わる(ついでに言うと、『禁じられた遊び』ではミシェルの兄が、『太陽がいっぱい』ではフィリップの親友が「第二の死」を遂げて、シッペ返しの作用を強化しているところも共通している)。ただし、ポーレットとは違い、トムのこの先の道程は死刑台へと続いているのだが……。
わたしは30年ほど前に母をくも膜下出血で亡くし、その享年をかなり上回る年齢のいまになっても、ともすると母の死がまだ胃の腑に落ちていない感覚がある。マザコンだけが理由ではなかろう。みずからにとってあまりにも近しい死とのあいだに紗のカーテンのようなものが引かれて、いつまでもその現実を受け入れられないでいるのは、だれしも身に覚えがあるはずだ。そんなわたしたちの寄る辺なさが、『禁じられた遊び』を永遠の名作にしているのに違いない。