アナログ派の愉しみ/音楽◎グラズノフ作曲『サクソフォーン協奏曲』

これこそ究極の
酩酊の音楽ではないか!


イノセンス――。わたしはアレクサンドル・グラズノフが残した9曲の交響曲(第9番は未完成)のいずれかを耳にするたび、その言葉が浮かぶ。まるで純真無垢な子どもがロシアの大自然のなかで戯れているよう、と言ったらいいだろうか。力ずくの押しつけがましさや、ひとりよがりの晦渋さは微塵もなく、ひたすら心地よい旋律がオーケストラからあふれて、いつまでも身を委ねていたい気分になるのだ。だから、そんな作曲家が、実はクラシック音楽史上でも屈指の酒好き、ありていに言ってしまえばアルコール中毒者だったらしいと知って、かなり意外の念に打たれたものだ。

 
ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』のなかで、自分はグラズノフを愛していると告白してから、「わたしとグラズノフのよい関係は、アルコールというすばらしい土台の上に形成されていた」と続けている。13歳の神童と54歳の国民楽派の重鎮が出会ったのは1919年のこと、ショスタコーヴィチがペテルブルク音楽院に入って師事したのがグラズノフだった。2年前にソヴィエト政権が成立してから、左党には欠かせないヴォトカは払底して、アルコールで代替したくても医学用や工業用として厳重に管理されている始末。そうしたところ、ショスタコーヴィチの父親が鉱山技師でアルコール委員会に出入りする資格を持っていると知り、もし露見したら銃殺刑に処せられかねない状況下で、グラズノフは執拗なまでにねだったという。

 
未来の大作曲家は、そんな恩師の姿をこんなふうに伝えている。

 
「授業のあいだ、グラズノフはときどき呻きながら、きわめて大きな院長用の机に屈みこむことがあった。しばらく、そのままの姿勢を保っていた。そのあとで、なんの苦もなく、ふたたび背中をまっすぐに伸ばした。わたしは好奇心にかられて、敬愛する院長の行動を熱心に観察していた。そして、よく言われていることだが、グラズノフが本当に大きな赤ん坊に似ているという結論に達した。なぜなら、赤ん坊はいつでも乳首をしゃぶりたがっているからである。グラズノフもまた絶えず乳首をしゃぶりたがっていたのだが、もちろん、本質的な相違もあった。その相違というのはこんな点である。まず第一に、グラズノフは乳首のかわりに特別な管のようなものを用いていた。わたしの観察に間違いがなければ、それはゴム管だった。第二に、彼はミルクのかわりにアルコールを少しずつ吸っていたのである」(水野忠夫訳)

 
とんだ大きな赤ん坊がいたものだ。これはもはや、重度のアルコール中毒者の振る舞いと言うべきだろう。20代で国際的名声を博しながら、第一次世界大戦からロシア内戦、ボリシェヴィキ革命に至る時代の荒波に翻弄され、ペテルブルク音楽院の運営の重責を担ってきたストレスが、グラズノフの精神をぎりぎりまで追いつめたのかもしれない。もう久しくめぼしい新作を発表していないスランプも、おそらくアルコールが作用したものだったろうし、また、のちに1928年ウィーンで開かれたシューベルト記念祭へ出かけたきりついに祖国に戻らなかったのも、政治的な決断にもとづく亡命というより、酔っ払いが千鳥足でほっつき歩いているうちに帰り道を見失ったようなものと言ったほうが真相に近いのではないだろうか。

 
やがてパリに定住したグラズノフは、華やかな異国の地でふたたび創作意欲に火がついたらしい。なかでも、新機軸を打ち出したのが『アルト・サクソフォーンと弦楽オーケスラのための協奏曲』(1934年)だ。まだベルギーで誕生して日の浅い木管と金管をミックスさせたような楽器を主役にして、このころドビュッシーやイベールも作品を発表しているから、作曲家のあいだでちょっとしたブームが起こっていたのだろう。グラズノフの作品は、シーグルト・ラッシャーというサクソフォーンの名手に捧げたもので、全3楽章が切れ目なく演奏される15分ほどの曲だ。

 
例によって、イノセンスの雰囲気がいっぱいだ。心の底から笑ったり、涙をこらえたり、ふいに甘えてきたかと思ったら開き直ったり……。わたしは気づく。この人なつこいサクソフォーンの融通無碍な響きは、へべれけに酔っ払ったときにだれしも味わう、あの甘さと苦さのないまぜになったとりとめのない気分そのものだ。これこそ究極の酩酊の音楽ではないか! と、しみじみ感じ入ってしまったのは、深夜、スピーカーに向き合っている当方もすでにかなりアルコールが回ってきたからに相違ない。ショスタコーヴィチが言うところの大きな赤ん坊のまま70歳で世を去ったグラズノフの、これが最後の作品となった。
 

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