アナログ派の愉しみ/音楽◎ガーシュウィン作曲『ラプソディ・イン・ブルー』

それはベートーヴェンの
交響楽にも比すべき音楽だ


クラシック音楽の新興国、アメリカが生んだ最大の作曲家はガーシュウィンだろう。『ニューヨーク・タイムズが報じた100人の死亡記事』日本語版(2020年)によれば、その死(1937年7月11日没)に際して当時の新聞がつぎのように伝えている。服部真琴ほか訳。

 
 作曲家のジョージ・ガーシュウィン(三八歳)が本日午前一〇時三五分、シーダーズ・オブ・レバノン病院で死去した。脳腫瘍の摘出手術を受けた後、帰らぬ人となった。(中略)
 ガーシュウィンはジャズ・エイジの申し子だった。F・スコット・フィッツジェラルドがジャズ・エイジを代表する小説家だとすれば、ガーシュウィンはその作曲家だった。一九二四年に、ポール・ホワイトマンの指揮棒により世に送り出された『ラプソディ・イン・ブルー』の調べは、ブロードウェイからはるか彼方へとさざなみのごとく広がり、そこからジャズと呼ばれる音楽が本格的に花開いた。ガーシュウィンの作品はボストン交響楽団の指揮者セルゲイ・クーセヴィッツキーも取り上げ、ヨーロッパ中の大都市で人気を博した。(中略)ガーシュウィンの音楽が後世に残るという点では、誰にも異論はない。

 
享年38とは、モーツァルト35歳やメンデルスゾーン38歳、ショパン39歳と同じく、神が愛でた夭折の天才と言うべきだろう。そのガーシュウィンが25歳のときに2週間で作曲したとされるのが『ラプソディ・イン・ブルー』で、まさしくかれの代名詞のような作品だ。

 
早すぎた死から8年後につくられた伝記映画、アーヴィング・ラバー監督の『アメリカ交響楽』(1945年)は、生前に親交のあったミュージシャンらが実名で登場するセミ・ドキュメンタリー形式だが、そのなかに1924年2月12日、ニューヨークで行われた『ラプソディ・イン・ブルー』の初演時の模様が再現されている。それを眺めると、ステージの左手に弦楽器、右手に管楽器、中央にバンジョー、ベース、ドラムスが配され、扇の要の位置をガーシュウィンの弾くピアノが占めて、全体を指揮者のタクトがリードするという、ジャズとクラシックが初めて融けあった光景が見て取れる。

 
「14分5秒、特別な曲だ!」

 
クラリネットのたゆたうグリッサンドではじまった演奏が終了し、観衆の凄まじい拍手喝采のなか、客席で息子の成功を見届けたロシア系ユダヤ人の父親は、手元のストップウォッチで計測した時間を口にしてうなずく。実際、それはアメリカの音楽史に新たなページを開く特別な曲だったろう。

 
ガーシュウィンの音楽はまたたく間にヨーロッパでも流行を呼び起こしたものの、やがてドイツで政権の座についたヒットラーは、ユダヤ人の音楽や黒人発祥のジャズを「退廃音楽」として抹殺しようとする。一方で、1936年夏のベルリン・オリンピックの開催にあたっては世界にアーリア民族の優等性をアピールするため、首都郊外にヴァルトビューネという巨大な円形劇場が建設された。

 
そのヴァルトビューネで、2003年6月、初演から約80年が経過した『ラプソディ・イン・ブルー』が演奏されたときのライヴ映像が残っている。毎年恒例の野外コンサートがこの年は「ガーシュウィン・ナイト」の題のもと、小澤征爾の指揮するベルリン・フィルと、盲目の黒人ピアニスト、マーカス・ロバーツの率いるジャズ・トリオが共演して、世界じゅうから集まった2万人あまりの聴衆がひとつになって熱狂する様子が捉えられている。そう、ガーシュウィンの音楽はヒットラーの芸術観に打ち勝ったのだ。

 
「21分22秒、特別な曲だ!」

 
最後の和音が鳴り渡ったとき、わたしは経過時間のデジタル表示を見やり、ついそう叫びたくなった。現代最高のオーケストラと新進気鋭のジャズ・トリオがイマジネーションを飛翔させたコラボレーションは、これまで見聞したなかでこの曲の最も壮大でエキサイティングな演奏だった。かつてガーシュウィンの訃報を伝えた新聞記事が予言したとおり、国境や時代を乗り越えて、『ラプソディ・イン・ブルー』はいまやベートーヴェンの交響楽にも比すべき、人類全体にとってかけがえのない音楽になったことを実感したのである。
 

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