アナログ派の愉しみ/音楽◎山田耕筰 作曲『かちどきと平和』

日本音楽史における巨人の
途方もないサービス精神


山田耕筰の自伝『若き日の狂詩曲』(1951年)のなかにこんな一節がある。

 
「一九一三年の夏、私は斎藤(佳三)を誘って、再びこの白夜の村、ディァハァゲンを訪うたのである。波止場には、我々を迎えるためだろう、日独の国旗が高く掲げられていた。村長はもとより、村民総出といってもいい、歓迎ぶりだった。(中略)ディァハァゲンは私に、第一交響曲を与えたばかりではない。日本楽壇建設の根本のプランをも立てさしたのだ。北海の片隅にある小指大の半島。その半島と日本楽壇が、こうしたふしぎな因縁を持っていることは、斎藤と私を措いては、恐らく日本の誰もが知らない事であろう」

 
確かに、他のだれも知るわけがない。なぜなら前年の夏、ドイツ留学中の山田が北部の避暑地ディアーハーゲンへ赴いて、おりしも卒業制作として取り組んでいた交響曲をのどかな田園情景のもとで完成させたことを余人が知るよしもないのだから。いわば、初の日本人の手になる交響曲の誕生秘話のたぐいだが、そればかりか、いまだ26歳の青年が当たり前のように母国のクラシック音楽界の建設まで立案して感慨に浸っているようすはどうだろう。見方によってはいささか傲慢の風もあろうけれど、わたしはここに山田の類稀なサービス精神の発露を見たい。

 
このときの交響曲は「かちどきと平和」と名づけられ、定石どおり全4楽章で構成されている。国歌「君が代」の旋律を用いたソナタ形式の第1楽章、のんびり逍遥するような行進曲の第2楽章、農民たちが賑やかに踊り戯れる第3楽章、そして「かちどきと平和」の喜びを謳いあげるフィナーレの第4楽章と、これまでの勉強の成果を盛り込み、全体をとおして快活で大らかな気分が横溢しているので聴く者は自然と口元がほころんでしまうだろう。このころヨーロッパでは新規の音楽語法をめざして、ドビュッシーが印象主義の自由な和声を試みたり、シェーンベルクが無調音楽の実験に取り組んだり、また、山田自身も自伝で当時のドイツのデカダン芸術への関心を示したりしているが、この作品にはそうしたしかつめらしさや病的な傾向は微塵も感じられない。

 
そこにはやはり日本人が交響楽を送り出すにあたって、あくまで平明で健康的な姿勢を演出する意図もあったのではないか。そして翌1914年にシベリア経由で帰国すると、さっそくクラシック音楽の普及に向けて日本交響楽協会(のちのNHK交響楽団)の設立に奔走するなど、エネルギッシュな活動を繰り広げる一方で、私生活では華やかな女性遍歴でゴシップを撒き散らしたのも、あるいはそうした旺盛なサービス精神のなせる業だったのかもしれない。のみならず後年、大日本帝国が世界と戦火を交えるようになるとおびただしい軍歌をつくり、日本音楽文化協会の幹部として占領地をめぐって国威発揚に努めたのも同じ事情によるものだったろうか?

 
さらにのちの1954年、68歳の山田は、群馬交響楽団の草創期の苦難を描いた今井正監督の映画『ここに泉あり』に本人役で特別出演する。その6年前に脳溢血で半身不随となったものの、スクリーンでは不遇な地方楽団を支援するため、右手だけでチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』やベートーヴェン『第九』の第4楽章を指揮して、共演の岸恵子、岡田英次、小林桂樹らの名優たちを圧する存在感を放っていた。これもまた、敗戦後の祖国で多くの人びとに音楽の喜びを届けたいと熱烈な思いがあってこそだろう。山田耕筰という日本音楽史の巨人を思うとき、わたしはその天才以上にサービス精神の途方もない息吹きに圧倒されてしまうのだ。

 


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