アナログ派の愉しみ/本◎リチャード・ドイル絵『妖精の国で』

ケルトのDNAがいまに伝える
天真爛漫な妖精たちの世界


今春(2023年3月)営業を終了した東京駅前の八重洲ブックセンター本店は、勤め先が近かったせいもあってわたしがこれまで最も足を運んだ書店だった。こんな思い出もある。もう10年あまり前、1階のエントランスの壁面で「ヨーロッパ版画展」と題した展示即売会が行われていて、ギュスターヴ・ドレやオーブリー・ビアズリーらのよく知られた作品が並ぶなか、わたしは柄にもなく、妖精たちが森や野原で遊びたわむれる光景を描いたシリーズの前で身動きできなくなってしまったのだ。

売り場の女性の説明によると、これはリチャード・ドイルというイギリスの画家が描いて、当時の有名な木版刷師エドマンド・エヴァンズが1870年に制作した『In Fairy Land』という絵本の、貴重なオリジナルから挿画を切り出して額装したものだという。いっぺんに心和む、その不思議な世界にすっかり魅了されたわたしはいつの間にか、妖精たちが色とりどりの鳥の背中にまたがってはしゃいでいる絵と、赤い服装の女の子が2羽のふくろうを抱きしめている絵のふたつを指差していた。代金は合わせて5万円ほどだった。

その後、神田神保町の古書店でたまたま『妖精の国で』という絶版のちくま文庫を見かけ、「もしや」と確かめたところ、やはり『In Fairy Land』の翻訳だとわかって入手した。すべての挿画がカラーで再現され、本文のウィリアム・アリンガムの詩も日本語になっている。たとえば、ふくろうを抱いた女の子の絵に添えてはこんなふうに。

 うわさにたがわず お美しい?
 あんたまだ存じあげないんだね いいかい
 青だの金だの 白だのピンクだの
 そんなものであの妖しいお顔を描けますかって
 この世のいかなる美しさのきわみでも
 とてもとても あの方の足もとにも及びますまい

訳者の矢川澄子の解説では、「原書はなにしろ縦39センチ×横28センチという大型で、ほんとの話このようなミニアチュール版におしこめてしまうのがもったいないほどの贅沢ぶりです」。ぜひ実見におよびたいと思いながら、日本なら明治3年の年に出版された稀覯書ににおいそれと巡り会えるはずもないと諦めていたところ、今度は東京ビッグサイトにおける国際ブックフェアの古書コーナーであっさり見つけてしまった。原書自体ではないものの、ほるぷ出版がそれを忠実に翻刻したものが二束三文で売られていて、かくして、わたしはこの天真爛漫な妖精の世界の全容をわがものにすることができたのだった。

リチャード・ドイルは1824年ロンドンに生まれ、若くして風刺画家・挿絵画家として脚光を浴び、おもに人気雑誌『パンチ』を舞台として健筆をふるったが、後半生はもっぱら妖精画家の仕事に専念したという。ヴィクトリア朝のイギリスでは、妖精のテーマがひときわ好まれたとはいえ、そうした商売上の理由よりも、ドイル家はもともとアイルランドにルーツがあり、そのDNAにはケルトに由来する自然崇拝が刷り込まれていたからかもしれない。そんなつもりで眺めると、かれの描く妖精は架空の存在ではなく、まさにいま目の前で生き生きと躍動しているではないか。

のみならず、リチャードの甥にあたる医師コナン・ドイルは、やがて『シャーロック・ホームズ』で高名を馳せたのちも心霊研究に打ち込み、1920年代に妖精写真の真贋をめぐって大論争が湧き起こった「コティングリー妖精事件」では、執拗なまでに妖精の実在を主張したことが知られている。近代科学主義の時代ならではの名探偵の生みの親も、やはりケルトのDNAを色濃く受け継いでいたのだろう。

どうやら、わたしと『In Fairy Land』のあいだは宿命的な縁で結ばれていたらしい。八重洲ブックセンターで初めて出会ったあの日、その妖精たちをわが家に迎え入れてからは、日常生活のなかで折に触れて、かれらの賑やかにはしゃいだり、ひそやかに囁いたりする気配が伝わってくるのだ……。


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