アナログ派の愉しみ/映画◎ジョン・ギラーミン監督『タワーリング・インフェルノ』

ハリウッドはなぜ
「パニック映画」に熱を上げたか?


ちょうどヴェトナム戦争でアメリカの敗色が濃厚となった時期、ハリウッドではにわかに「パニック映画」のブームが巻き起こった。突然の事故や災害をめぐるスペクタクルな群像劇として『大空港』(1970年)、『アンドロメダ…』(1971年)、『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年)、『大地震』(1974年)などが続けざまに制作され、その頂点を極めたのがジョン・ギラーミン監督の『タワーリング・インフェルノ』(1974年)だったとは衆目の一致するところだろう。

 
冒頭に、全世界の消防士たちに捧げる、とクレジットされたこの映画の主役は、未曾有の大火災だ。サンフランシスコに地上550m、138階の超高層ビルが竣工して、政財界の名士や文化人・芸能人ら300人を招待して盛大な祝賀パーティが幕を開けたとき、人為的な欠陥工事により電気系統から出火。オーナーがそれを隠蔽しようとするうちに火の手が広がって、瞬く間にタワーリング・インフェルノ(そびえたつ地獄)と化すなか、現場に急行した消防隊の果敢な救命活動がはじまった……。

 
主演はビルを設計した建築士にポール・ニューマン、消防隊長にスティーヴ・マックイーンと、このころ人気絶頂だった両雄の二枚看板で、他にもパーティ会場にはウィリアム・ホールデン、リチャード・チェンバレン、フェイ・ダナウェイ、フレッド・アステア、ジェニファー・ジョーンズら名優がずらり――と書きかけて、ふと気がついた。華やかな祝宴の出席者はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)ばかりで、黒人はと言えばビルの警備主任に扮したO・J・シンプソンぐらい、というのも当時のアメリカ社会を反映していよう。

 
それはともかく、罪のない老若男女が猛火のなかを逃げまどい、ある者は全身火だるまとなり、ある者は窓を突き破って転落し、ある者は貯水タンクから押し寄せる奔流に沈み……と、文字どおりの地獄図が繰り広げられる一方で、わが身を省みず果敢に立ち向かう消防隊員のほうもひとり、またひとりと命を落としていく。まだCGがスクリーンを席巻する以前のこと、生身の俳優たちは汗だくになりながら、命がけでホンモノの火炎や熱風と格闘している緊迫感がはっきりと伝わってくる。映画館の観客も、そんなかれらと一体となり手に汗握って見守ったのに違いない。ハリウッドはどうして、ここまで苛烈な「パニック映画」をつくりだそうとしたのだろう?

 
わたしの理解はこうだ。アメリカは南北戦争を経て合衆国の形にまとまったのち、二度の世界大戦に参戦しながら国土が戦火に見舞われたことはなく、その後の朝鮮戦争やヴェトナム戦争でもつねに相手国に軍隊を送り込んで戦った。つまり、これまで外来の敵を迎えて戦った歴史を持っていない。それはもちろん、国民にとってこのうえない僥倖だろうが、映画というメディアにおいては、かつて国土を蹂躙された経験をもつ国は必ずその歴史を題材として、試練を乗り越える人々の勇気と信念、自己犠牲の栄光を謳いあげてきた。こうした祖国受難のテーマから数々の不朽の名作が誕生したのだ。しかし、ハリウッドにかぎってはそれを成り立たせる条件がなく、そのコンプレックスが宇宙人来襲ものなどを量産させたわけだろうが、架空のSFよりもっとリアルな代替物として編み出されたのが「パニック映画」だったのではないか。

 
凄まじい激闘の末にようやく鎮火を見たあとで、消防隊長スティーヴ・マックイーンは建築士ポール・ニューマンに向かってこう告げる。「運がよかった、死者は200人以下だ。だが、つぎはそうはいかない。いまにビルで1万人の死者が出るぞ。おれはこうやって火と戦い、死者を運び出すまでだ。じゃあな、あばよ、設計屋さん」――。ことの基準を死者の数で計量する発想は戦争と共通するものだろう。マックイーンはかねて真のヒーローを演じたいと念願して、欲求不満をかこつこともあったようだが、この消防隊長役には納得がいったはずだ。

 
今日、こうしたハリウッドの「パニック映画」はすでに歴史的な役割を終えたように見える。理由はふたつ。そのひとつは、映画の制作においてCGがあまねく普及したため、たとえスクリーン上でどれだけ火焔に包まれようとも、もはやそこには生身の人間のドラマがないこと。もうひとつの理由は言うまでもない、2001年9月11日にアメリカ合衆国もついに国内が戦場となる経験をしたことである。


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